写真133 仏苗学園の資金難を訴える三メートルの手紙
初めは仏苗学園の資金稼ぎの上、自らの勉学、仏教の布教などを三年間行う予定だった。下層労働者の群れに混じって働いたが、言葉・食事などで倒れ、自殺を考えるまで追い詰められた。しかもサンフランシスコ大地震が起き、さらに排日運動が起きて就職口がなくなり、ピストルとナイフの離せない日々が続いた。ともかく明治三十九年(一九〇六)から大正十二年(一九二三)までの一七年間、如幻はアメリカ社会に深く沈潜し、詳細は不明となった。
写真134 千崎如幻
後に、如幻は「いろんな暮しをした。それは野の一草たろうとしたからであって、時には金門橋で冥想し、またサンフランシスコ公共図書館で勉学にいそしんだ。十年間私はもっぱらキリスト教を勉強した。キリスト教を知らずして白人に仏教を説けない」と語った。それは禅語の「歩々是れ道場」の生き方である。人は、鈴木大拙は白人に禅の知識を与え、如幻は禅の心を伝えたと言った。
この苦闘する如幻を陰ながら支えたのは、深浦の教え子・宮本保作だった。如幻は金銭感覚は無に近かった。しかし、アメリカは拝金国である。宮本は、深浦小学校時代の恩師で弘前出身の笹森嘉吉が日本郵船の事務長だった縁で渡米し、ポートランドでカメラの腕を磨いて成功した。如幻とは六十余年間温かい交遊を続けた。
多くの人は如幻の生き様をみて畸人と思いがちである。しかし、深く如幻に接し、如幻から信頼され、如幻の著『アメリカ人の仏教』を訳した徳沢龍譚は、如幻は春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)、まことに明朗なお方だと偲(しの)んだ。釈宗演は如幻をよく知り、「かれは常不軽(じょうふぎょう)菩薩になるために長い旅路をたどらねばならないだろうが、少なくとも、かれはこつこつと歩みつづけることだろう。そのうちには、きっと、かれの理想実現の日もおとづれてくるだろう。〝草の葉一枚でもよく三世にわたって仏塔をたてうる〟如幻は一日一日怠ることなく生きつづける限り四誓願の精神を実行することになろう」と明治三十四年にすでに予言した。
如幻は南北朝時代の禅僧寂室元光を尊敬し、その語録を英訳、昭和三十一年の五〇年ぶりの帰国の際もまず滋賀県の永源寺に詣でた。このとき如幻を迎えたのは三島市龍沢寺の中川宋淵(そうえん)である。如幻より三十一歳も年下だが、二人が知り合ったのはシャカとダルマの対面と言われた。
昭和九年九月、『婦人公論』は宋淵の原稿を載せたが、ロサンゼルスのタナハシ秋旻がこれを読んで師の如幻に紹介した。如幻は「祖国に同志を見つけたり」と叫んで早速手紙を書いた。ミセス・タナハシが如幻の弟子になる機縁には次のエピソードがある。
昭和六年、サンフランシスコからロサンゼルスに移った如幻は、東漸禅窟を構えて白人に布教し、また、朝露庵を設けて座禅を行っていた。しかし、相変わらず貧乏だった。あるとき、僧衣があまり汚れたのでタナハシクリーニング店に出したが、お金がなくそのままになっていた。ある日町でばったり会ったので、如幻は頭をかいて事情を話した。その時のムードで彼女も自分の悩みを話し、末っ子のジミーが知恵遅れで名前も言えない。あの子の子守代と洗濯代をエクスチェンジしようということになった。その後、如幻は、僧衣のまま乳母車を押してリトル・トーキョーを歩いた。そして常に「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」を口ずさんだ。これを七年間続けた。
後に、たった五ドルをもって渡米し、ニューヨークに大菩薩禅堂金剛寺を建てた嶋野栄道が、もう老人になったジミーをコロニーに訪ねたとき、相変わらずよだれを垂れ、自分の名前も言えなかったが、墨染めの僧衣姿の栄道師を見て、曲がらない指を伸ばして「セイガンド、セイガンド」と言った。初めは何を言っているのか分からなかったが、ハッと気づいたとき鳥肌が立った。僧形を見て如幻と思ったのだ。如幻の祈りがジミーの魂に通じていた。嶋野栄道は中川宋淵の弟子である。宋淵は彼に「もし貴方が法のために本当に身も心も捧げるなら、法の方からやってくるワイ」といって送り出したのだ。
如幻は、禅宗を仏教の一宗派としてでなく、その原型において伝えようとした。しかし、彼の志は日本の仏教界ではなかなか認められなかった。二人は毎月二十一日、大菩薩峠とロサンゼルスに座って、時間も定めて礼拝し合った。この霊交の日は太平洋戦争で強制収容所に入れられても続いた。
昭和三十一年秋、五〇年ぶり八十歳で帰国した如幻は東慶寺の宗演の墓に詣でた。寺で「足が悪いハデ無調法しますジャ」と言って津軽弁で話した。宋淵とは常に同行したが、自分を阿倍仲麻呂と言った。如幻の三笠の山はどこだろう。湊迎寺や深浦で、知り合いや仏苗学園の教え子に山ほどの短冊にせっせと句を書いて渡した。湊迎寺は二〇〇年前のままである。足あげを椅子にして座り、定巌和尚に経をあげた。そして双盤の鐘の音を聞きたいと言った。
かもめ啼く 海辺の宿に旅寝して
枕にひびく波をきかばや 如幻
枕にひびく波をきかばや 如幻
如幻の訃報を聞いて、宋淵は次の追悼句を詠んだ。
アメリカなる如幻尊者御遷化(せんげ)三句
慟哭(どうこく)の果ててありけり 五月富士
アラスカの雲飛びに飛ぶ 白夜かな
いっぱいになる秋の陽が がらんどう
慟哭(どうこく)の果ててありけり 五月富士
アラスカの雲飛びに飛ぶ 白夜かな
いっぱいになる秋の陽が がらんどう