山田良政(りょうせい)(明治元-明治三三 一八六八-一九〇〇)は津軽塗の恩人山田浩蔵の長子、生家が陸羯南の向かいだったので影響を受ける。良政は、東奥義塾から青森師範学校へ進んだが中退、羯南を頼って上京、その勧めで水産講習所へ入り、明治二十三年北海道昆布会社に就職、羯南との話し合いで清国研究を志し、上海支店に勤務する。同地で日清貿易研究所へ通い、中国語に習熟、志士荒尾精の薫陶を受ける。さらに日本青年を集めてキリスト教青年会をつくった。
明治二十七年支店次席となったが、日清戦争が勃発、通訳として第三軍とともに金州で活躍、のち台湾に渡った。明治三十二年孫文と出会って共鳴し、清朝打倒の革命運動に投じた。同志に宮崎寅蔵や平山周らがいる。このころ、近衛篤麿や陸羯南は東亜同文会を組織し、支那保全を目的とした。そして政府の補助も得て南京同文書院を開いた。この設立の中心に山田良政は活躍し、幹事・教授となり、戊戌(ぼじゅつ)政変のときは危地に陥った改革派の人々を救った。しかし、革命派に走った良政は同文書院を離れた。
孫文は、日本の援助を受けて恵州で挙兵、広東省城を占領して革命に突入する計画を立てた。日本の同志はこの計画を疑問視した。山田もむしろ清朝の三傑の李鴻章、劉坤一、張之洞の暗殺を考えた。三州田の山塞に集まった革命軍は二万と称され、逸(はや)って挙兵した。しかし、対清政策を変更した日本から武器の応援がなく、やがて総崩れとなった。
このとき、山田は孫文に頼まれて恵州の革命軍に参加、脱出を拒んで敗退する革命軍の殿(しんがり)を務めて戦死した。政府軍は山田が日本人であることを覚って、国際紛争となることを怖れ、箝口(かんこう)令を敷いて証拠の湮(いん)滅を図った。山田は一七年間も行方不明の扱いだったが、やがて真相が判明し、弟の純三郎が現地に赴き、土を日本に持ち帰った。
孫文は、自伝の中で山田良政を、中国共和革命のために命を捧げた外国義士の第一番の人と書いて悼んだ。