この後の菊池武徳の華々しい活躍は周知のとおりである。この状況を見て、菊池九郎の長男菊池良一や弘前士族で時事新報記者工藤十三雄も政界進出の希望を抱き、大先輩の菊池九郎に相談した。これに対し、菊池九郎は二人に次の手紙を与え、忠告している。「十三雄様の貴翰も 良一の手紙も相達候 繰返し再読いたし 所謂けむにまかれて容易には御答いたし兼罷在候拙老が党籍上の件は易しきことに御座候へ共 只諸君の御計画は余りに漠然たるものにて 即ち地方をば余りに軽視被致候感有之候 やはり根拠地無之候ては 容易には人心を纏め兼候ものに有之候 まずは理想的のみには事の運べぬことは追々有之ものに御座候(中略)只拙老の遺憾に感じ候事は諸君は久敷く他に御出の事故(ゆえ)余りに地方を軽視なされ 言換れば地方を馬鹿に見られ居候事に御座候 中々地方それ相応に党派心に激し居候傾き有之候事情も御座候に付 事を新たに挙げらるるなら何か名義の正しきものによらねば成功いたし兼候ものと御承知有之度候」と、大正三年六月廿五日の手紙に、帝国大学を出て理想論を吐き、都会のインテリ社会で生活している有為の若者が、鬱屈(うっくつ)した津軽人の、特に党派心の強い政治社会で生きていくことへの注意を懇々と説いた。