普選運動は本県でも青年の政治思想を刺激し、その普選の波に乗って現れたのが青森の工藤鉄男であり、弘前の平沢均治の衆院立候補である。いずれも従来の地主選挙から離れた、新しい青年階層に対する呼びかけである。そして、それまでの単位青年団が、助役や学校長を団長とする官制的なものであったのに対し、青年団は青年団自身のものでなければならぬという運動が起こった。
大正十一年、黒石町に革新青年団が生まれた。ロシア革命以後の時代風潮もあって、大正八、九年ごろから黒森山浄仙寺で南郡下の青年団中堅幹部の講習会が開かれ、黒石の岸谷俊雄らがリードしていた。彼らの「自主化」は一部から青年団の赤化と言われた。大正十二年、黒石革新青年団は郡青年団から脱退した。ここから発進した柴田久次郎、加藤清作、岸谷俊雄、北岡義端らは郡下の農民運動、無産政治運動を展開させていく。
大正十四年になると、「未来は青年のもの」というキャッチフレーズで、無産青年運動が全国的に起こるようになった。弘前にも弘前無産青年同盟が創立された。会長は淡谷恒蔵で、堀江彦蔵や弘前女学校の小使、店員、大工などが会員で、機関誌『青年同盟』をガリ版刷りで発行した。彼らは、政治研究会弘前支部の実態に不満があった。この青年同盟と弘高社研とは密接に結びついていた。当時の弘高社研リーダーは田中清玄だった。