歩兵第三一連隊は岩手県出身の兵士によって編成されていた。雪中行軍遭難事件当時の三一連隊は、青森県ないし弘前市民の将兵で構成され、五連隊は岩手県出身者が大半だった。だが編制替えなどもあり、軍縮時代にはその関係が逆になっていた。ところがこのとき、岩手県には連隊が置かれていなかった。そのため陸軍省では三一連隊を盛岡ないしその周辺に移転する計画を講じていた。第八師団のある弘前市に一連隊を置き、岩手県にも同県出身者で構成される一連隊を配置することは、合理的な軍縮路線として当然考えられる政策だった。軍縮のあおりを受けて五二連隊が解散すれば、三一連隊が五二連隊の兵舎に移り、青森市にある五連隊が三一連隊兵舎に移転する可能性もあった。
第八師団設置の際もそうだったように、陸軍部隊の設置や移転は地元経済に甚大な影響を与える。多数の将兵とその家族が地元にもたらす経済的効果は、師団と二つの連隊をもつ軍都弘前市の場合、尋常ではなかった。三一連隊の盛岡移転問題に対して、市を挙げての反対運動が展開された。市議会でも検討され、移転阻止に対する決議もなされた。移転阻止の決議案には、市の財産をなげうってでも師団を誘致した弘前市民の努力を強烈に訴える内容が盛り込まれていた。
弘前市を挙げての反対運動の結果、五二連隊は廃止されたが、三一連隊の盛岡移転と五連隊の弘前移転は実施されずに済んだ。師団司令部のある地元弘前市周辺に連隊がなくなる事態だけは、陸軍省も避けたのである。この点は弘前市当局も、移転阻止の陳情条件に盛り込んでいる。だが陸軍省は解散した五二連隊の跡地に三一連隊を移転することだけは、予定どおり実行に移した。五二連隊自体が三一連隊よりも新しく設置されたこともあり、連隊の敷地や兵舎が新しかったからである。