大正期においては、初期の不況を乗り越えて、次第に商工業が発展した。商工戸数は、明治四十二年(一九〇九)に合計二七四六戸(うち商業、一七八一戸、工業、九六五戸)であったのが、大正六年(一九一七)には三四〇五戸(うち商業、二〇五一戸、工業、一三五四戸)、同八年には三四七四戸(うち商業、二〇六五戸、工業、一四〇九戸)と増加している(弘前商業会議所『弘前市商工案内』各年次による)。もっとも、年によって増減に波があり、大正十二年(一九二三)には合計二四九六戸(うち商業一五三九戸、工業九五七戸)と減少し、翌十三年には合計三五六一戸(うち商業、二二八七戸、工業一二七四戸)と、再度増加している。
このような活況の背景としては、第一次世界大戦時とその後の景気動向の好転があるが、弘前市においては、陸軍第八師団が所在して消費需要が旺盛であったこと、周辺農村も凶作の影響から脱却したこと、また、青森県内の津軽地域はもとより、隣県の秋田県の北部である北秋田郡や鹿角郡が商圏に含まれ、これらの地域の農業や鉱工業が好調であり、消費需要が高まったことがある。