文化十年(一八一三)九月に津軽地方一帯で起きた通称「民次郎一揆」と呼ばれる百姓一揆は、一揆の指導者とされた民次郎が弱冠二十代の若さで斬罪に処せられたこともあり、この地方ではつとによく知られ(『新編 弘前市史』通史編2(近世1)五七九頁参照)、演劇や小説の題材として取り上げられている(須藤水甫編『義人 藤田民次郎伝』一九六三年、津川武一『オロシアおろし 藤田民次郎の一揆』民衆社、一九八九年)。大正二年の大凶作は、この年から数えてちょうど一〇〇年目に当たっていた。民次郎の出身地鬼沢村(現弘前市)では、凶作の影響が深刻になる中の大正三年(一九一四)一月、鳴海柾吉(一揆の願書を清書し、鞭刑となった忠三郎の孫)らが中心となり、「義民藤田民次郎の建碑」に奔走した。その「趣意書」には「我カ民次郎ニ至リテハ百年ノ今日未タ曾テ一掬(すくい)ノ涙ヲ以テ其ノ霊ヲ弔スルモノアルヲ聞カス」と民次郎が十分に顕彰されていないことを憂い、「本年ハ恰(あたか)モ其ノ百年忌ニ当リ、本県又タコノ凶歉(きょうけん)ニ遇ウ、亦タ奇ナラズヤ」と凶作の原因の一端と結びつけており、その中にも凶作の惨状がうかがわれる(「義民藤田民次郎建碑の趣意書」、資料近・現代1No.六一三)。
大凶作の原因が「民次郎」の供養にあったか否かは別にして、地域住民の建碑に込めた願いが伝わってくる。民次郎は今日では、凶作で疲弊した農民を救うために減免の要求を掲げてその先頭に立った義民として評価されている。また、今日、鬼沢地区の住民を中心に義民民次郎の顕彰事業が実施されており、昭和二十七年(一九五二)、鬼沢・楢木婦人講中一同が中心となって、自得小学校校庭に「義民 藤田民次郎出生之地」の碑を建立、同三十五年(一九六〇)、藤田民次郎顕彰会の設立、同六十一年(一九八六)九月には、自得小学校創立百十周年記念事業協賛会が「義民民次郎顕彰之碑」を建立した。