柴田やすが弘前で私塾を開いたのは、大正三年(一九一四)のことである。当時弘前には、県立弘前高等女学校と私立弘前女学校の二つの女子中等教育のための施設があった。しかし、家事や裁縫などの授業は週一〇時間に満たなかったので、これでは卒業後十分役に立つほどの技術を習得することはできなかった。
「柴田式」裁縫塾は、生徒の技術の上達が早いことが評判になり、またたく間に生徒数が増え、大正六年には北川端町に移ったが、すぐに手狭となり、翌七年には上瓦ヶ町に校地校舎を求め、「私立女子裁縫実践会」として発足した。教授は柴田やすが当たったが、裁縫手芸のほかに生け花や茶の湯、習字も教えている。周辺の郡部からの進学者も増えた。
大正十二年二月には、かねて申請中の各種学校令による女子実業教育の学校として正式に設立の認可を得ている。
塾から弘前和洋裁縫女学校に変身し、四月八日入学式、六月には正式に開校式を挙行した。石郷岡市長ほか多数の来賓を迎えたが、このときの生徒数は九九人であった。
柴田やすの卓越した経営手腕と女子教育にかけた情熱は、日増しにその発展の度を速め、大正十五年には在校生二五〇人に達し、今日の揺るぎない基盤を築き上げたのである。また、弘前市民に親しまれた和洋バザーは恒例の行事であった。
写真187 和洋バザー(大正14年)