明治年間を通して地方自治体や各種の自治的な組織も次第に整備され、市民の自治意識も高くなった。ことに日露戦争が終わると地方改良運動が唱えられ、その一環として地方青年団の設置が奨励された。県当局はまだ具体策を示すに至らなかったが、民間では自治意識が高まるにつれて、町の有志による青年団や青年会の結成がみられるようになった。
明治四十五年(一九一二)五月、弘前で初めて町内の枠を破って、全市的な青年団の結成が見られた。弘前実業青年団で、新寺町慈雲院を会場に発会式を挙げた。この青年団は土手町と和徳町の有志が首唱し、全市の実業家たちに呼びかけて成った団体である。青年団の会員は多く商店の経営主であり、会員は各自の営業発展のため研修に励み、情報や経営を持ち寄って交流を図った。
大正元年(一九一二)十月、下町の鷹城青年会と下土手町の向上青年会は、元長町の養生幼稚園を会場に連合の演説会を開催した。鷹城青年会は五十石町や鷹匠町など中級以下の士族が多く、士族意識は依然として強く、排他的な孤立が根強かった。一方の下土手町は当時最も開明した純粋の商店街である。全く異なった性格を持った町内の連合ということで識者の注目を浴びたが、このような青年会の試みが、市連合青年団結成へと動くのである。