蓬萊館から大和館へ

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慈善館の出現に刺激されて、中土手町の寄席蓬萊亭は、大正四年秋から活動写真の常設館へ転向、名も蓬萊館と改めて新発足したものの、館主の経済的事情により開館わずか一年足らずで閉館となってしまった。しかし、活動写真に新時代の企業性を認めた有志によって再開に向かうことになった。
 そのころ、商店主たちは、映画館の持つ客足の吸引力に注目していた。個々の商店の知恵を絞った大売り出しよりも何倍もの人を、映画館は一挙に集めてしまう。土手町の陰に隠れて意気の上がらなかった百石町商店街は、その繁栄策として、市民から館復活の声が盛り上がっていた蓬萊館を百石町進出の形をとって再興させることを図り、大正六年八月、新しい映画館が誕生したのである。館名は社会福祉が看板の「慈善館」に対し、一回り大きく〝大和民族〟の名を借りて「大和館」とした。
 大和館の名を高めたのは、坂巻ラッパという名弁士の存在であった。大正期はまだ無声映画の時代であり、映画のシーンに合わせて、生の音楽が流れ、弁士が七色の声を使い分けながら場面を説明していた。興行の出来、不出来は弁士で決まると言われていたほどである。大和館は、新派(邦画の現代物)の弁士として、東京の人気弁士・坂巻ラッパを県知事の給料を上回る月給を出して引き抜いてきた。そのラッパの声色(こわね)を使い分けての真に迫る場面説明もさることながら、裁判官の法衣という意表をついたいでたちも、世間を沸かせたものである。