三一連隊の兵員が盛岡連隊区管内の壮丁で編制されていることも、移転の重要な根拠だった。雪中行軍のときは五連隊が岩手県民、三一連隊が青森県民で主に構成されていたが、軍縮のあおりから五二連隊が廃止されるなど、連隊の構成にも相応の変化があった。その結果、岩手県では山形、秋田、青森の一県一連隊と歩調を揃え、三一連隊の兵員の望郷病を防ぎ旅費の節減をはかるためにも、岩手県への三一連隊移転を主張したのである。
同年六月十三日、弘前市では市会を召集し「歩兵第三十一連隊 現状維持陳情案」(資料近・現代2No.六六参照)を可決した。陳情案は岩手県側か一県一連隊を悲願としていることに対し「人情トシテ必スシモ非難スルヲ得サルヤニモ察セラレ」ると一応の同情を示していた。だが師団司令部管下には歩兵二個連隊を附属する必要があるとの原則論があった。第八師団管下には青森市に五連隊、弘前市に三一連隊と、二つの連隊があったが、師団司令部の地元弘前市には、五二連隊が軍縮の影響で廃止されていたため三一連隊しかなかった。また弘前市に五連隊を移転する計画もあった。それでも青森市の猛反対運動と経費節減などの諸要因から、軍当局は弘前市と青森市は近距離にあるため移転の必要なしと決めていた。結局、弘前市には師団司令部がありながら、連隊は三一連隊だけしかなかったのである。その三一連隊を盛岡に移転させられることは、師団司令部のある弘前市に連隊が存在しないことを意味した。市当局や市民の反対は当然でもあった。
弘前市民の反対理由はほかにもあった。明治二十九年(一八九六)の三一連隊創設時に、兵舎の敷地四万坪と道路などを無償提供し、現在三一連隊の敷地である旧五二連隊の敷地も弘前市が寄付したものだった。決して豊かではない財政を自らなげうって軍都弘前市を作り出した市にとって、「軍隊ト衛戍地方トハ渾然トシテ相融和シ共存共栄ノ理想郷ニ到達シテ国家ノ進運ニ貢献シ来レリ」との自負があった。五二連隊の廃止で甚大な影響を受けた市にとって、三一連隊まで失うことは「師団設置以来数十年間一日ノ如ク捧ケ来リシ誠意モ空シク水泡二帰スルノ悲境ニ陥ル」ことになろう。軍都弘前の市民にとっては、まさしく危機の到来だったわけである。
この陳情は弘前市長の松下賢之進より、田中義一内閣の陸相白川義則宛に出された。結果的には三一連隊の移転は行われずに済んだが、市にとって軍隊が存在するかしないかは死活問題だった。かつて大正期の軍縮時代にも連隊の廃止や移転問題が起きた際、市民は猛反対運動を起こしている。単に郷土兵を擁するという名目や名誉もあるが、やはり軍隊が存在することで得られる経済的効果が大きな理由だった。県庁を青森市にとられた弘前市にとっては、第八師団という軍都の繁栄こそが最大の利点だったからである。
写真33 上空から見た第31連隊の敷地