秩父宮は陸軍内での階級と身分こそ少佐であり大隊長だった。しかし社会的には天皇の直弟であることに変わりない。ゆえにその社会的影響力は想像以上に大きかった。実際に秩父宮自体も軍隊任務を果たすだけでなく、弘前市内を中心に県内各地を視察し、民情を探り、学事・産業の奨励を行った。天皇や皇族の行幸啓は単なる儀式・儀礼なのではなく、皇室に対する国民の敬慕を募り、大日本帝国の根幹を支えるための重要な社会システムづくりの一環だった。天皇・皇后を筆頭に、皇族男女の行幸啓で演じる言動は、そうした社会システムを機能させるための必要不可欠な任務だったのである。
秩父宮は赴任後早々に起きた県内一帯の大水害に際し、弘前市内だけでなく県内各地の被害地を視察して、慰問や救済活動を行い皇室費から費用を捻出している。また各地の文化事業や社会慈善事業などにも出席し、事業の推進を奨励している。こうした皇族の行幸啓は皇室の温情を地域の人々に施すために必要なものだった。皇族の温情に触れた人々は一様に感謝感動しているが、御用達という言葉にもあるように、皇族のお墨付きをもらうことが、社会のなかで重要な意味をもつからでもあった。
軍人たる男性皇族の活動だけでなく、女性皇族の慈善活動も重要な任務だった。秩父宮は夫妻揃って来弘しているが、秩父宮妃の活動も、弘前市民だけでなく青森県民に対して重要な役割を果たしていた。とくに病院や養護施設などへの訪問は、女性皇族の慈悲を伝える重要な任務だった。女性皇族の行啓も、男性皇族が軍人として演習に出席し、師団や連隊に赴任し、軍隊秩序を維持することと対をなす重要な役割をもっていたのである。
秩父宮妃は病院にも足を運んでいる。これは女性教育上の配慮からである。男女別教育が当然であった当時の教育制度では、女性は皇后を筆頭に皇族女性を理想とし模範とするよう教育された。それゆえに女性皇族は女性たちの敬慕を集める存在として振る舞う必要があった。皇后や皇族女性は、赤十字など慈善団体の総裁的な存在として位置づけられている。女性は慈悲深い存在として、軍人となる強い男性と対をなし、男性を支える存在となることが求められていた。皇族女性の言動はそのための必要な措置だったのである。
こうしたことから秩父宮夫妻は弘前市内の各学校にも足を運んでいる。秩父宮は男子学校、秩父宮妃は女学校を訪問し、青年児童の教育奨励を頻繁に行った。人格形成期の青年児童における皇族との接触は、彼らに皇室への敬慕の念を確実に植え付け、皇室を中心とする国家体系を強固なものとするための重要な機会となった。
秩父宮夫妻の滞在は一年程度のものだったが、これ以後も弘前市は秩父宮夫妻に関わるイベントをたびたび実施するなど、皇族のなかでもとくに深い関係をもった。秩父宮自身は、その後長い闘病生活に入り、戦後まもなく病死するが、宮の死後も市は宮を哀悼するイベントを講じるなど、秩父宮と弘前市の関係を特別視していた。皇族と地域の関係は地域史の重要な一こまとして見るべきものなのである。