銃後後援強化週間の実施

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政府は戦争遂行に当たり銃後の支援がもっとも必要であるとして、国民精神総動員政策を徹底させた。それは具体的に銃後後援強化週間を実施することであった。昭和十三年(一九三八)十月五日から十一日までの一週間、戦没軍人の偉功を偲(しの)び、傷痍軍人や出征軍人への感謝の念を昂揚し、彼ら軍人の家族に対する援護を徹底するというのである。これを受けて県では各市町村長、各警察署長、公私立各学校長宛に、銃後後援強化週間の実践運動に入る準備を整えるよう要請した。運動自体は市民の精神教育的な側面を強化するものだった。慰霊祭や戦勝祈願、町内会・部落常会など隣組制度の徹底、傷痍軍人の慰撫などが強調された。
 しかし銃後後援強化週間のもつ重要性は、学童児童への精神教育の徹底にあった。通達自体が公私立各学校長宛に出されたことに注目したい。実施要項には「少国民への強化」と題し、学校現場で運動を徹底することが指示されている。銃後後援強化週間は一週間だけの精神教育政策のような印象を与えるが、それが学童児童に与える心理的な影響力は無視できない。
 弘前市でも昭和十四年二月七日、県から銃後奉公会の設置を要請され、時局の推移に鑑みて挙郷一致の単一団体とし、軍人後援会との連携を要すとされた。銃後奉公会は市町村の軍人援護の中枢団体として位置づけられ、会の指導・統制は市町村長が行い、県内の全般的指導・監督・統制は知事が行うとなっていた。この結果、弘前市銃後奉公会が結成され、会長には市長が就任した。

写真23 銃後奉公会関係の簿冊

 軍人援護に関する資金は、国や軍ではなく、各地域で支えるということが重要である。それゆえに隣保組織の徹底が重視された。銃後奉公会は市民に直接接する市町村当局によって運営された。そのため市民の戦争参加はいっそう進んだ。けれども動員と銃後生活の徹底だけでは市民の積極的な戦争協力の姿勢は引き出せない。そのために打ち出されたのが軍人援護政策の徹底だった。動員を背後で支える銃後の生活と、軍人援護政策があったからこそ、国民は積極的に戦争協力していったのではないだろうか。