傷痍軍人の保護

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圧倒的な武力と物資をもつ連合軍、とくにアメリカ軍の反撃は猛烈で、日本の戦局は急激に悪化した。動員兵力も極端に低下し戦力不足は顕著だった。そのため政府や大本営は反戦・厭戦を防止する対策に迫られた。傷痍軍人の保護を徹底することは、その顕著な対応策であり、戦争への支持を督促する方便でもあった。しかし戦局の悪化にしたがい前線はもとより、銃後にも動員不足が現れてきた。そのため軍人の援護や遺家族への保護が不十分になってきた。執拗な保護対策が叫ばれることは、保護対策が不十分であることを意味しよう。昭和十七年(一九四二)一月二十六日、青森県学務部から軍人援護の普及徹底をはかる通達があった。それによれば軍人の家庭は隣組で守ることが「銃後国民ノ最モ大切ナ責務ノ一ツ」とされている。出征軍人を出した家族を援護するのは、ここでも地域そのものであり、隣組というもっとも身近で小さな団体だったのである(資料・現代2 No.一二〇参照)。

写真28 軍人援護の回覧板

 けれども軍人援護事業が銃後奉公会をはじめ、民間団体の協力を得て行われたことも事実である。昭和十八年四月九日、県内政部は軍人援護精神昂揚運動として巡回映写会を実施している。これには地元の銃後奉公会や地方事務所だけでなく、社団法人映画配給社と毎日新聞社が主催し軍事保護院が後援した。映画配給社による「移動映写」で映写班が組織され各地域を回った。毎日新聞社のイベントでもあったのだが、県当局は軍人援護政策として活用した。入場料は無料だが、必ず出征軍人宛の慰問文を携行することが義務づけられた。慰問文は県がとりまとめ、軍部に献納された。軍と自治体当局と民間企業の共同事業による軍人援護活動の一端が理解できよう。
 弘前市での巡回映写会は四月二十九日に開催された。上映映画は「マレー戦記」、「空の神兵」、「ハワイ・マレー沖海戦」、「ビルマ戦記」など、戦記ものが多かった。この事業自体は、軍人家庭の経済的援助という類ではなく、娯楽面ないし精神的な側面からの援護であった。精神面を強調することだけが精いっぱいの援護策だったともいえよう。