戦局の悪化に伴う動員不足から、傷痍軍人の保護事業は次第に様相が変わった。昭和十九年(一九四四)三月十三日、県当局や大日本傷痍軍人会および軍人援護会の各支部は、重度傷痍軍人の再起復活のため二十四日に座談会を開催した。座談会の内容は重度の傷痍軍人を対象としているだけに、実際に前線に登用される軍人としての再起を試みたものではない。むしろ傷痍軍人の心構えを説き、精神性を強調して、彼らの勤労奉仕を促進する事業だった。重度の傷痍軍人も動員せざるを得ないところに、根こそぎ動員の本質と実態がうかがえよう。
七月四日、県は市町村に対し顔面戦傷軍人の参禅修養会の実施を命じた。戦局の悪化による激しい戦闘で重度の傷痍軍人が激増した。なかでも顔面戦傷の軍人は精神的にも社会生活上にも苦悩を感じ、積極進取の気概に欠けるとして問題視されていた。彼らに対する精神面からの援護事業は、文字どおり傷痍軍人の援護でもあったが、彼らが反戦・厭戦的となり、その言動が国民全体に影響し浸透することを恐れていたからでもあった。
そのほかにも県は軍当局の依頼により、各市町村に対して傷痍軍人の配偶者斡旋を通達している。結婚の斡旋は健民運動の事業として女性に強く要請された事業であり、多子多産政策の延長からも共通するところがあった。この通達に対して、弘前市長は九月四日に、前年四月から当年三月までの状況を報告している。取扱い件数七件に対し成立六件、不成立一件と、成績こそ上々だが、当局が斡旋しているにもかかわらず、一年間で七件の取扱い件数は果たして多いといえるだろうか。そもそもこのような事業が展開されること自体に、傷痍軍人の結婚事情はあまりよくなかったことがうかがえよう。
けれどもその一方で傷痍軍人を勤労動員せざるを得ない状況が各地で現れ始めたのも事実だった。前線への出征は無理である彼らも、生きていくためには勤労生活を送らざるを得なかった。成人男性の多くが出征兵士に徴発されてしまう以上、女性や中高年男性はもちろん、なかには傷痍軍人をも勤労動員の対象として活用せざるを得ない現場も増えてきていた。昭和十九年四月二十八日、県は傷痍軍人や軍人遺家族のみを従業員とする工場経営などに対し、経営成績が良好でなく弊害が生じる工場の新設を禁じた。これは工場の生産能率の悪化よりも、傷痍軍人自身の反戦・厭戦気分が高まり、戦争継続上悪影響となることを恐れたからである。しかし傷痍軍人の再起が可能で、能率が上がり採算がとれる工場ならば許可されていた。傷痍軍人でさえも動員せざるを得ない現実は、すでに勤労体制の破綻にほかならなかった。
国民の反戦・厭戦気分は内面的には相当高じていた。徴用・徴兵の解除願いを提出する人々も多く出始め、当局の指示に面従腹背する人々も多かった。確かに特高警察や憲兵隊の弾圧・取締りが厳しく、人々は表面的には戦争協力の姿勢を装っていた。けれどもそのような取締りを巧妙に逃れつつ、人生上の喜びや楽しさを追求していた人々も実際には数多くいたのである。人々が当局の指示に従い、戦争完遂のために銃後の生活を徹底できたのは、戦勝に対するかすかな願望と、敗戦に対する恐怖感があったため、反戦・厭戦気分がなかなか表面化しなかったからだろう。