出稼ぎの実態

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大正九年(一九二〇)に起こった第一次世界大戦後の反動恐慌は多くの失業者を生み出した。政府はその対策として大正十年四月に職業紹介法を公布し、全国的に職業紹介所が設立されていく。青森県人の出稼ぎは、北海道・樺太などにおける漁業や林業従事が大半で、斡旋(あっせん)業者が出稼ぎ者を募集していたが、契約不履行などのトラブルが発生し社会問題化してきたため、大正十四年に出稼供給組合が創設され、職業紹介事業が公的機関で行われることになった。弘前市では昭和三年に弘前市職業紹介規程が制定され、市役所内に職業紹介所が設けられた(資料近・現代2No.一五五)。昭和に入り、不況がますます深刻化してくると職業紹介業務の拡充が必要となり、昭和五年六月、本県に北海道・東北各県を管轄する青森地方職業紹介事務局が開設された。すると出稼供給組合はその業務から雇用斡旋を切り離して、出稼者の福祉増進と保護事業に重点を置くようになり、名称も出稼者保護組合と改称された。その後、昭和十一年、職業紹介法の改正により各地方職業紹介事務局は廃止され、昭和十三年、職業紹介業務は国営化された(中島寧綱『職業安定行政史』雇用問題研究会、一九八八年および高田浩稔『青森県出稼労働史』高田浩稔、一九九九年)。
 このように、出稼ぎ労働者の雇用環境の保障は出稼者保護組合が担うことになったが、ここに昭和十七年の樺太林業出稼ぎ者からの訴えが綴(つづ)られた書簡を紹介しよう。
 失礼乍ら乱筆にて、用件のみ申し書き到(ママ)します、私が、昨冬十二月十五日に貴課を通ずて王子製紙の川崎造材部に雇はれて来ましたが、私が初めての仕事でしのに、身体がヨワイため、現在では前借に加算しての借金になりました、私が此の造材部に雇はれる時、選雇員[ A ](千年村原ヶ平)が全々素人でも出来る仕事で前借百五十円に別に五十円貸すからと言ふて合計二百円かれ(借り)ました、其れに旧正月に五十円送金するから心配するなと言ふ約束でしたが、旧正には一銭も送金して呉れません、其れどころか切上げ三月三十一日まで間違ひなくやりくりしても、一所に帰郷する約束で来たのですが、一行六名の内、私一人が残るのやむなきに到りました、かんたんですが、あらかづめ、かくなった理由を次に書きましから熱考の上御ぜひを持って、ヨロスク御取計ひ下さいませ
 私は本籍は市内富田町富野六二で現在は上富田町山崎米店西に三げん目に永住すて居る者で当年三十三才、妻は三十才で、十二才頭に六人の子供で親子共八人暮しの日雇生活を今日まで到して来ましたが、つい二、三年前から自分の身体のヨワイのもカイリ見ず、漁場などに歩きましたから、ヨイ金を取れず秋にかへるので日雇すて居るよりズート家計苦しくなりました、其の時、昨冬十二月友達(仕事での同はい)が来て、樺太の山子(杣夫)は前金二百円貸して、旧正五十円送金して、春新三月末に幾等か持って帰るにヨイから、素人でも大丈夫だとの事で、前記選雇員に合わして話しを到しましたが、何等話に間違がない様なので、即時、ケイ約を到したわけです、其れに唯が(〔誰カ〕)借金が残っても一スヨウ(〔諸〕)に行った者は一スヨウ(〔諸〕)に帰る様取計ふ約束でしたので、私も家計の苦しいあまり、何に、ガンバルと思って十二月十七日に弘前を出発到しました、当現場は追手の町より(悪戸位の所)より山道で八里以上で造材関係以外人の出入なく、荷物類は馬で二回に仲出して上げて居る所で御座います、手紙なども山に上る人がなければ十日も十五日も来ません、出し時も其の道り下る人がなければ出されぬ様ふなわけてあります、現在は馬は二ヶ月近く休み居ります。雪とけてきけんですから、現場は野田寒山の真下で、今日の所二尺七、八寸位の雪で、また、バチと言ふソリをつかって居ります、出面〔時間による賃労働や日雇いの労働〕もありましたが大抵は受負仕事であります
 私が山子(杣夫)は全々素人なので、選雇員([ A ])と共同で受取り到しましたが、自分が素人なのに[ A ]が選雇員すて居て杣夫の仕事が二年のケイケンよりないのだソーです。ですから、他の杣夫の四分の一位より働けませんですた、だから、私は出面取やると再々言へましが、一スヨウ(〔諸〕)に来た(同行六)人達が今に金になる/\と言ふて[ A ]などは三月に入れば十円働くに楽だなど言ふて自分を(ママ)話を聞きません、其れに山頭(帳場兼小頭)も今に/\にカケてどうとう四月三十日まで選雇員([ A ])と共同させられました、山の仕事は月に二十四日位はヨイ方で、吹雪で二十日位です、私の仕事の出来高は四円たらずです、其れに風引ひたりケガ(軽傷)したりで今まで十五日位休みが付きました、私は素人故、デキ得るカギり人様より早く(二時間)出て働きましが、相手は選雇員(組頭)だと言ふワケで人様よりオソク(私より三時間)出で働きます、其れでも仕事が出来ればヨイノデすが、前記の如く二ヶ年(山の働月は二回に六ヶ月)のケイケンよりないので能率が上りません、皆んなに言ふわれても平気で私に今に(どうなても帰る様取計ふ)からと言ふて、切上げの三月三十一日スギ、四月三十日で一時的受取が終りました(一行六人の内)全部四月二十七日に切上げて帰りました、ところが終った日に私か足が傷いて休んで居りましたら、[ A ]の言ふにはオレが事ム所(山に出張)に行って来るから現場に道具取りに行って来て呉れとの事ですから、私が自分も事ム所に行くべき所、仕方なく道具取に行って来ました、所が今が今までとヨイ様取計て一スヨウ(〔諸〕)に帰るとの話をワスレて居る如くですたので、私か、事の如何を問ふと、下の事ム所でないと話が付かないからとて(下の事ム所は追手)(上の事ム所は飯場から一里位下にある)オレが下の事ム所でウマク話をすて電話(事ム所から事ム所に通ずる私設)でスラセルカラ心配するなと言ふて五月二日の朝一時頃下の事ム所に下ったきり音信ありません、上の事ム所では電話で問合せ電報たのんでも、御前等の小使でないなんて便りは有りません、勿論、津軽衆は皆んな帰ったので、便る人もないす、身体がヨワイので、ツケ目でせうが定めす相手が、二再、人をタノンデ来るとかで弘前に行って居る事と思ひます、今の所、私の出来得る仕事は有りません、火防巡視と言ふ私の身に合ふ仕事があると言ふから上の事ム所にタノムともう定まててないと言ふす
 十二月十二日五十円、十二月十五日百五十円、計二〇〇・〇〇、右の金を最中家計の苦しいときなので、木炭代(隣組長)亦十二月十五円、目鏡(近視三度) 一〇・〇〇、コスノコ五・五〇、米・味ソ十円、自分が素人故今後ヨロスクと言ふわけで同行者(佐々木、[ A ])と言ふ者に十五円、酒呑むト足、上着、ツポン十四円位、家具(質受)二十円位と思ふ、ソレコレと言ふまに妻に、子供六人に二十円足らずより残さず、[ A ]選雇員の話により、旧正月五十円送るからに言ふて来たきり一銭も今日まで送らず、自分のすては頭が覚乱すて気がくるいソーですが、前記の如くで今か今かと内に帰ればと思って来ましたが、今は全く如何とも出来ず、貴課に御願ひ申し次第であります
 前借二〇〇・〇〇、十二月十七日、弘前出発より夜具、エン着のため野田追手の宿賃、現場の荷上賃一包六・〇〇、作業道具マサカリ一七・五〇、ハビロ(皮ムキ用) 一八・〇〇、マサカリのい、ハビロのい、とびのい、何んのかんのと言ふ間に百円値かれますた、其れがないと、仕事がならぬから、飯場は一日一円三十五銭、其れに五日に一回出日と言ふて酒二合五勺七五に、煙草配給すます、はきものがないからヅーク靴八・五〇(コレヨリナイカラスカタガナイ)コノ、ヅクグチは月一足位でやぶけるが其れよりないので仕方がありません、今日は朝からばんまで水の中に入って居ると変りなす、私は其れでも内で仕たくすたから外ノ物品取りません、何んの、かんので、マサカリのイおれた、何だかんだで、飯場共スンポーステ五十五円位かかります、私等は今まで二五〇・〇〇より働きません、今では二四一・〇〇ほどあります、此れを返済するまでは、四・二〇の出面取やって一ヶ月二十四人働くと百円です、其れを飯場物品引くと四十五円よりあまらずウマク行って十月末頃でなければ返済出来ません、ソーすると昨冬十二月から今年十一月半までウツ(〔内〕)に二十円たらずの金をオイテ来て、妻子七人に暮せと、自分は飲って居るからヨイモノノ、ネてもオキても心にカカツテ、クルイソーデス、ノミたい、クイたい子供に、其れに自分は其の出面取りも出来兼る様です、三度の物は一度にすても子供等にナンギはカケたくないが今の自分には身にコたいてます、内の家計が頭にカンカンです、当飯場には故郷に帰らず樺太十年、二十年と居る者が多々居ります、其の妻子等の事考えられると自分もヤヤもすればソーなる気物が到してなりません、とうてい我々如き者の出来得る仕事でありません、私と同行者に市内、枡形福士分店向ヒに、[ B ]君と言ふ人が居りましから、くわしい事聞いて、帰郷して月割にするか亦は他の出来得る仕事に出るかに御取計ひ下さるまいかと御多忙中恐入りますが、悪筆にて御願ひ到します
  五月七日
                    樺太西海岸追手川崎造材部内 [ C ]
厚生課出稼係御中
(『出稼者保護組合二関スル書類綴』弘前市立図書館蔵)

 この出稼ぎ者は、日雇い人夫より実入りがよいと聞き、樺太へ林業出稼ぎに行くが、前借金で得た二〇〇円は身仕度や作業道具の購入などで大半を使い果たし、妻子へはその一割足らずの二〇円しか生活費を渡せなかった。また、選雇員は旧正月には家族へ五〇円仕送りするという約束を守らず、その上本人は出稼ぎ先で体調を崩したことで十分に働けず、一緒に行った同郷の者たちと一緒に帰郷もできず途方に暮れている。とにかく、残した妻子のことを考えると気が狂いそうになると切々と訴えている。この書簡は、当時における出稼ぎ者の経済状態の実態を表していると考えていいだろう。