弘前銀行と第五十九銀行の休業

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昭和六年(一九三一)十月中旬、第五十九銀行で大蔵省の銀行検査が行われた際、青森支店において行員二人の行金横領が発覚した(『東奥日報』昭和六年十月二十二日付)。同行の蒙った損失は当初一三万円で、横領行員が弁済した額もあるため、銀行としては充分補填可能で経営には大した影響はなかった。だが、金融機関に対する信用不安が蔓延するなか、この事件が県下の親銀行である第五十九銀行内で起きたことは、預金者の信用不安を増大させることになった(宮本利行「昭和初期の青森県における金融機関の動向について」『年報・市史ひろさき』一〇、弘前市、二〇〇一年)。
 そうしたなか、八戸銀行が休業してからちょうど一年目の昭和六年十一月二十四日、かねてより経営状態の悪化が噂されていた弘前銀行(大正十年に弘前貯蓄銀行から改称)が休業を発表した。同行では、大正十四年に合併した関銀行から、合併後回収不能となった一〇〇万円の不良債権を発見したため、この整理に取り組んだものの相当の欠損を出すことになった。そこで同行経営者はこれを公表することによる信用失墜を危惧し、そのため粉飾決算(いわゆる「たこ配当」)を行い続けた結果、ついに膨大な損失を計上することになったため、昭和三年に五〇万円を減資した。だが、これをもってしても不良債権の整理には不十分で、とうとう六一万五〇〇〇円の損失を抱え、昭和六年十月の大蔵省検査の際、それが検査官に指摘された。損失は重役らの私財提供によって補填することにしたが、そのほとんどは不動産によってなされたため、支払準備金の補填にはならなかった。その後、ついに支払準備金が不足してしまい、第五十九銀行に融資を求めたが交渉は不調に終わり、休業を余儀なくされた(資料近・現代2No.一八一および前掲『青森銀行史』)。

写真37 弘前銀行

 そして、弘前銀行休業のあおりを受け、翌二十五日に第五十九銀行が休業のやむなきに至った。休業の発表について、『東奥日報』昭和六年十一月二十六日付夕刊は次のように伝えている(資料近・現代2No.一八二)。
 弘前銀行の休業は、遂に県下の親銀行たる第五十九銀行に影響を及ぼし、二十四日、行員の帰宅後徹宵重役会を開き、二十五日午前五時終了したが、同日午前九時玄関前には
  帳簿整理のため向ふ三週間休業仕り候
   昭和六年十一月二十五日
                株式会社第五十九銀行
と書いた貼札をなし、各支店及出張所には電報並に電話を以て通知し、本支店とも一斉に休業の已むなきに至った、表面は帳簿整理であるが、探聞する処に拠れば、同行では弘銀の休業と同時に取付けを憂慮し、日本銀行より支払準備金として金百万円を繰出さんと計画したが、不調に終わったので、血塗れとなるより寧ろ休業して整理の已むなきに至ったものである(後略)

 第五十九銀行は弘前銀行の最大の債権者(営業資金の貸し付け)であり、弘前銀行が休業に踏み切ったのは、第五十九銀行が融資を断ったからであった。そうなると、預金者は第五十九銀行も支払準備金が不足していると推測し、連鎖的取り付けが発生した。第五十九銀行はそれを回避するため日本銀行に融資を申し込んでいたが、不調に終わったため弘前銀行と共倒れとなるより、休業して支払準備金を調達することを選択した(前掲「昭和初期の青森県における金融機関の動向について」)。

写真38 第五十九銀行の休業を報道する『東奥日報』(昭和6年11月26日付夕刊)

 その後、昭和六年十二月十一日付けで、第五十九銀行頭取宇野勇作は休業に至った原因について、大蔵大臣井上準之助宛に次のような報告書を提出している。
    預金払戻停止報告書
 累年の不況に加ふるに、本県は稀なる大凶作に見舞れたるを以て、左なきだに萎靡せる財界は漸く金融の逼迫を誘致し、県内銀行中には資金難の声を聞くに至れるが、隅々当行青森支店に於て消費事件発見せらるゝや流言蜚語加はり、先つ八戸銀行休業の体験ある湊、八戸、三本木方面に緩慢の取付起り、青森、弘前にも同しく之等の形勢を見れるを以て、日銀より特別担保により融資を受け、一面資金難銀行の維持援助に努むると共に、凶作に対する資金及年末資金調達の必要を認めたるも、当行の保有する有価証券、商業手形は地方に在りては確実性あるも、県外に於ける担保性少く、止むを得す中央に於て不動産資金化に依るへく其交渉中、突如、十一月二十四日密接関係にある弘前銀行に於て休業発表の為め、直ちに当行本支店一斉に取付を受け、手許遽かに激減し、最早一日を支ふる能はず、遺憾ながら翌二十五日遂に休業の止むなきに至れり、試みに預金最近の残高に依れは九月末現在二二、九二五、八〇四円五七三厘、十一月二十四日現在二〇、六一六、七六四円八五〇厘にして差引二、三〇九、〇三九円七二三厘の減少を示し居り候
  右預金支払を停止するに至りたる経過及御報告候也
     昭和六年十二月十一日
                   株式会社第五十九銀行
                      取締役頭取 宇野勇作
大蔵大臣 井上準之助 殿
(資料近・現代2No.一八五)

 つまり、大蔵大臣に休業に至った原因は青森支店行員の横領事件と弘前銀行の休業という突発的な事故にあると報告しているが、経営内容をみると、報告書にもあるとおり、預金の純取り付け高は、昭和六年九月末から休業に至る十一月二十四日まで二三〇万九〇〇〇円余り、預金残高の一〇%に達している。そして、表8にあるとおり、六年上期までなかった借入金が下期には一九一万九〇〇〇円余りとなり、支払い資金の八三%を借入金に依存しなければならない状態となっていた。
表8 休業前における第五十九銀行主要勘定の推移
(単位:千円)
期末有価証券貸出金預金借入金経常純収益
割引手形貸付金合計
昭和元年下期2,3525,38315,38220,76517,082-359
2年下期2,7905,44917,71023,15920,341-382
3年下期3,0604,38118,78623,16820,941-441
4年下期2,5083,78120,92324,70422,926-458
5年上期2,8473,36519,44622,81222,660-367
下期2,5163,94721,27125,21822,477-358
6年上期2,1244,45921,38125,84022,835-328
6年下期1,8663,12820,48523,61419,6551,919116
前掲『青森銀行史』

 こうしたことから、確かに行員の横領事件や弘前銀行の休業は破綻のきっかけとなったが、これらの事件がなくとも第五十九銀行は何らかの衝撃があれば破綻する危険性は十分に持っていたのである(前掲『青森銀行史』)。
 第五十九銀行の休業に引きずられ、その子銀行たる三戸銀行尾上銀行などが休業すると県内各行は次々と休業に追い込まれ、県内一六行のうち一一行が休業し(表9)、本県の金融危機は深刻な状態となった。
表9 昭和5~6年の青森県下休業銀行開店休業銀行の概況
(単位:千円)
休業・開店休業日銀行名公称資本金払込資本金積立金預金貸出金その後の経過
昭5.11.24八戸5,0002,300758,3689,555昭5.12.31預金払戻
昭7.11.24開業
昭6.11.24弘前1,50080652,3362,989昭6.12中旬開業
昭13.9.13任意解散
昭6.11.25第五十九10,8005,9283,06622,46225,521昭6.12.16再開
昭7.7.1常態復帰
▲弘前商業1,5006751462,2112,507制限支払を発表後、事実上撤廃
▲青森商業1,5009151831,3191,627
▲津軽3,0001,200643,3504,637
三戸7003404611,6661,841昭6.11下旬再開
昭13.5.6第五十九銀行に買収認可
尾上1,0007501941,2712,038昭6.12下旬再開
昭15.3.4第五十九銀行に買収認可
▲青森1,0006401331,3281,302制限支払を発表後、事実上撤廃
*青森貯蓄500250562,1321,112〃〔推定〕
昭6.11.28陸奥3,0001,200643,3504,637昭10.7.31預金払戻
昭14.8.26任意解散
前掲「昭和恐慌期における休業銀行開店休業銀行の実態と影響」より作成
備考(1)*印は貯蓄銀行を示す。
(2)▲印はいわゆる開店休業銀行を示す。
(3)各銀行の計数は、休業又は開店休業の前年末のもの。
(4)「その後の経過」には主要な事項のみ掲げた。
(5)「預金払戻」は、休業・開店休業銀行が整理案等にもとづき預金の一部または全部の払い戻しを開始したことをいう。
(6)「任意解散」は、銀行法第25条または第26条の規定により銀行が解散を決議し、主務大臣の認可を受けた場合をいう。