富田大火と第一・第二大成小学校の焼失

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昭和三年(一九二八)四月十八日午前十一時四十分、市内富田師団通りの民家物置から出火した火事は、折からの南東の強風にあおられて、前年の「和徳の大火」に引き続いて、二年続きの大火となった。これを「富田の大火」と呼び、焼失区域は富田大通りの一部、偕行社通りの一部、住吉町、品川町、松森町一部、代官町、土手町一部、上瓦ヶ町一部、和徳村一部、楮町に及び、焼失家数六一〇戸、半焼一九戸、本市未曾有の大火といわれた。
 この大火によって第一大成小学校第二大成小学校の二校が同時に焼失した。そのため、第一大成小学校は四月二十三日から和徳小学校に移って、二部授業を行うことになり、午前は和徳校児童が出校して授業し、午後は一大校の児童が授業した。しかし、いつまでも二部授業を続けていては教育上問題があるというので、市は蔵主町角(現NHK弘前支局敷地)にある旧弘前市公会堂を修理して、第一大成小学校仮校舎とし、二学期の九月一日から同所で授業を開始した。したがって二部授業は一学期間だけで解消された。
 第二大成小学校は三年生以上を朝陽小学校へ、二年生以下を富田小学校(昭和三年四月から弘前市移管)へ収容、ともに二部授業を行った。ここでも二部授業の解消に努めた結果、朝陽小学校に収容の児童を旧三一連隊兵舎に移し、富田小学校に収容の一・二年生児童は、旧弘前製糸会社(現富士見町秋元酒店倉庫)へ移すことにした。
 焼失の両校とも直ちに再建されることになり、第一大成小学校は経費八万四七〇〇円をもって、木造二階建てモルタル塗の校舎が三年十二月二十日に落成した。一方、第二大成小学校再建については市会で種々論議され、結局弘前最初の鉄筋コンクリート造三階建て校舎が建築されることになったが、建築に時日を要し、落成したのは昭和五年六月二日であった。

写真50 県下初の鉄筋コンクリート造であった第二大成小学校(昭和5年)