二十二年(一九四七)一月二十九日、市内各国民学校に学校給食が開始された。給食用食料はララ(アジア救済連盟)物資からの放出である。放出のララ物資は玉石混交で、高級な牛肉の缶詰があるかと思えば墨で黒くなったイカの缶詰もあり、そのほかに、トマトジュースやオレンジジュース、果物の缶詰などさまざまであった。
各校ではとりあえず使丁室の湯沸室を調理場とし、市が雇った給食婦三人を使って調理した。物資不足の時なので児童は大喜びで食べ、残す者など一人もなかった。学校では児童用食器の購入など物入りだったが、父母の援助により陶器の碗などを急いで取り揃えた。
二十二年十月から脱脂粉乳によるミルク給食が開始され、そのため給食室の設置が必要となったが、これら施設は学校後援会や戦後新しく設けられたPTAの寄付によって整備された。第一大成小学校では同年十二月、予算二四万五〇〇〇円をもって給食調理室を建設し、給食施設優秀校として県から表彰されているが、その費用の大部分は同校PTAの寄付によるものであった。市内各小学校とも学校給食施設の完備には、ほとんど関係PTAの援助によるところが大きかった。
なおララ物資による学校給食の際は給食費は無料であったが、給食費を徴収するようになったのは同物資の放出が打ち切られた二十五年からである。学校給食の普及と実施は、全国的にみても弘前は優れているといわれたが、これは一般家庭が給食を歓迎し、惜しみない援助を与えたことが原因であろう。