昭和八年二月二十五日、
全農青森県連合大会が北津軽郡金木町(現五所川原市)金木劇場で開かれた。出席人員は西郡、北郡、中郡をはじめとして遠く三戸郡からも集まり、一〇〇〇人を突破して劇場から溢れ、場外から声援するありさまであった。午前十一時、代議員の万雷の拍手と歓呼の中に
岩淵謙二郎書記長が開会を宣し、「
地主は少数で
小作人は多数であるから多数の
小作人が結束すれば凡ゆるものに勝つ」と言うと、斎藤警部補は「中止」と呼んだ。次に
淡谷悠蔵執行委員長の「団結の力は刃物よりも力がある」でまた「中止」、
三上徳次郎争議部長が代わって「
小作農民の力で死しても大会を守らなければならない」で「中止」、次いで「解散」を命ぜられた。代議員は憤激し、直ちに警察署に抗議をなし、集会届を出して午後二時から再開することとなった。二時、大会警備員の腕章と県下動員の警官のサーベルが対峙のまま、殺気みなぎった会場で岩淵書記長再開を宣言、五分にしてまたまた「中止」、同時に「解散」。直ちに街頭をいっぱいにした抗議デモとなり、同日
スキー県大会に来ていた県知事に金木駅で面会を求めたが、知事は早くも身を隠し、警官隊と大乱闘となり、連合会幹部総検束となった。
写真90 全国農民組合県支部連合会第7回大会(昭和10年)
資本主義の矛盾が生んだ
農業恐慌は「豊作でも凶作でも百姓は食えない」ことを実証した。昭和五年の産米は六六八七万石で、神武以来の大豊作といわれたが、米価の暴落で
米作収入は前年の七〇%、「豊作飢饉」といわれ、翌六年は天候不順もあり、実に一一〇〇万石減の五五二一万石の凶作だったが、農家の庭先相場はかえって低落し、昭和四年の五七・六%となった。これは朝鮮・台湾からの
移入米が一〇〇〇万石を突破し、内地の米配給量がかえって増えた一方、大衆の購買力がますます減少したからである。農民の窮乏は慢性化した。そして、
小作争議の中で
地主の土地取り上げを原因とするものが増加した。以前は示威運動、共同耕作などの大衆動員によって争議を解決した例が多かったが、中小
地主の態度が強硬になったことと、当局の取締りが厳重になって大衆動員が弾圧され、
地主はひたすら法廷戦術をとるため争議が深刻化し、暴行傷害等の刑事事件が増えてきた。