農民運動の変質

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本県も、都市の不況や北洋漁業の出稼ぎの減少から土地取り上げの争議が目立って増え、八年からはりんごの暴落によりりんご園の争議が著しく増え、さらに九年の大凶作で争議は一段と増加、岩手を除く他の東北五県とともに全国有数の争議地となった。そして十年の冷水害には、被害の大きい西、北津軽両郡の組合員を動員して、十一月、県庁に対する大衆的示威運動を計画したが、岩淵ほか幹部多数が検束され、全農の運動に一転機を画した。その後、政党支持問題で抗争を生み、昭和十二年末、本部の斡旋(あっせん)で対立を解消したが、十三年、全農は戦時体制のもと方向転換を行い、小作組合型を放棄、二月六日大日本農民組合(組合長杉山元次郎)となり、昭和十五年八月十五日解散、大政翼賛政治確立のため農業報国会の全国的結成が内務省、農林省指導のもとに進められた。
表15 昭和三年から八年までの弘前署黒石署管内小作争議件数
 昭和三年昭和四年昭和五年
 件数反別件数反別件数反別
弘前一町五反歩一三町八反七畝
黒石八反七畝二町  六畝一町三反七畝
       
 昭和六年昭和七年昭和八年
 件数反別件数反別件数反別
弘前一三町一反二畝三町九反五畝一六一一町二反三畝
黒石一二一四町  七畝一五二二町五反九畝三二一五町六反九畝
昭和九年度『東奥年鑑』より作成