このころの電気事業は、地方の地主や実業家の出資によって経営されていた電灯会社による独占的な営利事業であり、「電気事業法」という法律によって保護され、その株主たちは、また、政党と固く結びついた保守勢力の端末だった。電灯料値下げ運動は昭和四年から全国的に起こったが、本県においても弘電、青電、馬淵電、八戸水力電等に値下げ要求の運動が起きた。とくに弘前電灯株式会社(略称弘電、弘前市本町、取締役社長佐々木嘉太郎)に対する運動は対立一年余、ついに断線騒ぎが起き、法廷闘争に移されるほど激しかった。当時県内には電気会社が一二社あり、いずれも株式会社だった。
弘電争議は次のような経過を辿った。昭和五年(一九三〇)一月二十七日、黒石町に弘電値下げ同盟が創立された。労農党支部と黒石商工会連合の組織で、役員は次のとおりだった。
会長佐藤清吉(酒造業・商工会長)、副会長高樋竹次郎(土木建設業・津軽実業新報社長)、長谷川忠蔵(黒石消費組合長・新聞社長)、理事柴田久次郎(労農党・農民組合指導者)ほか一八人。
同年三月六日、弘前市に電灯料値下げ期成同盟弘前部会(弘前市和徳町太田鐵次方)も設立された。実行委員長太田鐵次、委員阿保與市ほか六人。同年四月十五日弘前部会と黒石期成同盟との提携が成り、弘前部会に藤崎、百田その他の支部を含み、黒石同盟には浅瀬石、金田らの支部を含み、全部の加盟者は三五〇〇戸となった。連合会の要求は次の六項目である。
一、電灯料五割値下げ
二、電球取替無料
三、取付無料
四、規定の電圧を送れ
五、全部の需要者に計量器実施
六、強制断線絶対反対
しかし、会社は要求を拒絶した。連合会の値下げ理由書は次のように訴えている。水が電気になり、電灯となるまでの実費は一〇燭光一ヵ月一三銭という。弘電の一〇燭光一灯一ヵ月は六五銭である。米が一俵一八円のとき、一〇燭光一ヵ月七〇銭だった。今は一俵一〇円以下だ。織物は半値、家賃も二、三割安。衣食住と同じ価値と重要性を持つ電気のみ独占権に安住し、配当一割をむさぼっていると糾弾した。