葛原市政

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昭和十七年の市長選挙では、実業界で手腕を発揮している成田寅之助か当選したが固辞、そのため後任が紛糾、ついに田、清藤正副議長の専断に一任ということになった。かくて成田の助言もあり、当時田舎館村長の葛原運次郎と決定した。葛原運次郎は哲人と言われる教育者だった。昭和六年に県立弘前中学校で起きた嶽籠城ストライキ事件時の校長だった。辛口の人物批評の松井泰も、戦後葛原のプロフィールを次のように書いている。

写真97 第17代市長 葛原運次郎

運次郎葛原先生の世に残した印象は〝蘆葦年々膝下に青し〟という禅語の如きものがあるのではなかろうか。戦闘帽にフロックコート、それに巻ゲートル、革靴という奇異な姿で、宮様を案内したことがある。しかし一人として、此時代ばなれした姿を笑ったものはない。一日進駐軍の幹部が市の有力者を招待した。其時皆モーニング姿なのに彼一人は国民服で悠々と出かけた。後で一将校があのカーキ色を着た洗濯屋の親爺のような奴は誰かと通訳に聞いた。

 葛原市長の助役は県商工課の羽賀良太郎で、二人とも政治的駆け引きや市会操縦等には全く超越していた。しかし、市会側も時局の進展に目覚め、葛原市政協力に徹し、時局にふさわしい市勢の伸長に努力した。昭和十八年度予算市会は、一般歳入出七三万六八一四円、特別会計上水道一二万八三三円、病院二〇万九一三二円、その他が、市制始まって以来の無修正決議となった。
 昭和十九年、二十年は防空壕の造成に懸命だった。公共用は二五〇ヵ所を設営する計画だった。このころ、航空機不足に対応して市内の転廃業者が木製飛行機製作工場を計画した。弘前出身の中村良三海軍大将や鈴木喜助海軍少将の協力を得て桔梗野工場ができ、従業員五〇〇人という軍需工場になったが、用地については葛原市長の特別の配慮があった。