市当局にとって市民の混乱収拾は重要な課題だったが、実態は市当局の対応だけでは対応しきれなかった。それほど敗戦後の生活状況は劣悪きわまりなかったのである。それでも市当局だけでなく、関係諸団体や市民の努力で、徐々に回復の兆しが現れてきていた。その一つの事例として、照明の復旧が挙げられよう。
敗戦後の市民にとって灯火管制が解除され、明るい夜を迎えられたことは何よりの喜びだった。おそらく全国民が等しく実感していたことであろう。しかしいざ灯火管制が解除されても、敗戦後しばらくは街灯が乏しく、夜は市街地でさえ暗く、治安維持上からも問題とされていた。それでも国やGHQの指導により、次第に街灯が設置され家庭電灯も復旧し始めた。このことは長い戦争を経験してきた市民にとって画期的な出来事だったろう。
バブル時代ほどではないが、現在の日本の各都市は夜でも街路が非常に明るい。東京などの大都市は不夜城などと呼ばれている。男女を問わず多数の若者が闊歩(かっぽ)し、昼夜を意識させないにぎわいぶりである。しかし不夜城が現出したのはごく最近である。高度経済成長期より以前の日本の「夜」は、現在の我々が想像する以上に暗かった。まして戦後まもないころの「夜」は、さらに明かりも少なく、今日とは比べようもなく暗かったことに注意したい。だからこそ市民は明るい照明を望んだのであり、明るい照明が文化の発展を象徴する印象をもつようになったのである。
市当局や市内の商工業界は、電気こそが文化の普及に役立ち、産業振興に寄与するとして電気普及のキャンペーンを講じた。そこで市当局や商工会議所をはじめとして、商工業者、電力会社、建設業者、電気器具販売業者、電気工事会社などが、東北電力株式会社弘前営業所に事務所を置いて、昭和二十五年十月十二日、弘前照明普及会を立ち上げた。普及会はモデル街灯、交通照明を普及させ、ネオン広告看板照明を宣伝するほか、商店・工場・学校・住宅照明の技術的指導を事業計画としていた。翌年の四月十九日には、市当局のほか、商工会議所、青森県照明普及会、東北配電株式会社が後援となって、弘前照明コンクールの開催を呼びかけている。