盲聾学級の設置

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昭和二十三年十二月一日、城西小学校盲聾学級が併設された。文部省は同年四月七日に「盲聾啞児童の就学義務」を規定したが、それにこたえて弘前市議会は盲聾学級設置を可決し、県の認可を経て設置したものである。
 盲聾学級の設置には市学務課が積極的に動き、磯野金郎弘前市立女子高等学校長や小野吾郎県議会議員らが熱心に協力した。市では盲聾教育に経験のある柴田貞次郎教諭を同年九月十四日付で城西小学校に迎え、学級開設準備に当たらせた。同校では盲聾学級教室として、弘前公園内の旧国民修練場(弘前公園北の郭にあった公園無料休憩所)を使用することとし、同年十二月一日開級式を挙行したが、このときの入級者は盲児三人であった。しかし、入級希望者は多く、翌二十四年一月には盲聾児各三人の申し込みがあったため、二月十五日付で聾教育に経験のある神忠一教諭を迎え、四月一日付で千年小学校から対馬ハル教諭を迎えた。城西小学校盲聾学級はこうして発足したが、最初は教具教材等も不足で、指導教員の苦労は大変だった。しかし、同学級PTA工藤孝吉が私財をなげうって教具を寄贈し、弘前市最初の盲聾教育はようやく軌道に乗り始めた。
 昭和二十五年四月一日、城西小学校盲聾学級は一校として独立し、弘前市立盲学校・聾学校となった。しかし、同年五月一日県に移管されたため、青森県立弘前盲学校・聾学校となり、翌二十六年七月一日、弘前市富田町安原に校舎を新築し移転した。
 同校のその後の変遷を述べると、昭和三十二年高等部も開設、普通科を置いた。四十年、聴力相談室を設けて聾教育の一層の充実を図り、幼児部を設けて盲聾児の幼児教育を開始した。四十二年、県教委の方針によって、県立弘前盲学校は青森市の県立盲学校に統合されることになり、弘前は聾学校のみとなった。弘前聾学校は、校舎の老朽化の解消と聾教育の充実を図って、四十七年から弘前市原ヶ平奥野(現原ヶ平三丁目)に新校舎を建築、四十八年三月十六日落成式を挙行し、現在に至っている。