昭和三十五年の弘南バス争議

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この後、昭和二十九年以降毎年のように弘南バス労組(総評系)のストライキが計画されて名物化し、会社は組合分裂策動を行った。そして迎えた昭和三十五年(一九六〇)はいわゆる六〇年安保の年、総資本対総労働の対立と言われた三池争議は日本を変えたが、津軽でも〝北の三井三池〟と言われた弘南バスの争議があり、スト突入以来一三二日間に傷害や暴行、器物損壊など六四件の不法事件が発生し、検挙者一三五人に上る本県労働運動史上空前の争議となった。
 争議が長期化した原因について、当時私鉄総連中央執行委員で、後に弘南バス労組執行委員長を長く務めた福岡礼次郎は、会社側の組合分裂策、第二組合(弘南バス全労組・全労系)優遇策、三ヵ年の安定賃金への怒りがあると語り、さらに会社の体質に〝地主資本〟の流れがあったと見る。一方、当時常務だった、創業者菊池武憲の六男武正は「当時の組合は労働者が天下をとるというイデオロギーの闘いで、正常な労働運動でなかった」と強調する。
 組合の要求は、①労働時間一日九時間を拘束八時間、②退職金増額、③貸し切り規準の緩和、そして一四三〇円のベースアップであった。会社は実質アップ九五〇円を出して譲らず、三月七日から実力行使に入ったが、三月十九日、七〇人の組合員が新組合を結成、すぐ二五〇人に達した。新組合の弘南バス全労組は四月十五日会社最終案で妥結、三ヵ年は賃金要求せず、東北大手一〇社の平均基準にに一〇〇円プラスを了承した。
 第一組合は五月四日から四営業所で指名ストに入り、バスの運行を阻止する戦術に出て、二十日までにバス一〇〇輛を占拠した。このため、バス争奪や運行阻止をめぐる暴力事件が第一組合と第二組合・臨時守衛の間で相次いだ。会社はロックアウト、懲戒解雇で対抗、大量の臨時守衛を雇ったが、その中に暴力団員も混じっていたため、争議激化の一因となった。争議の険悪化をみて、県警本部は連日八〇〇人近い警官を動員して警備した。会社は第一組合役員ら一一人を解雇、私鉄総連と県労は一四〇〇人を動員して弘南バス本社前で決起大会を開き。五月十三日、四八時間全面ストに突入した。

写真148 弘南バス争議