キリスト教の復興

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敗戦によって諸教会の合同を強制した宗教団体法は廃止され、諸教会の日本基督(キリスト)教団からの離脱が行われたが、大勢は一九四一年(昭和一六)の合同を解消せず、教団を一つの教会として歩みを続ける道を選んだ。かつて日本メソジスト教会の弘前支部として、特に奥羽北部にあってその中心に位置する教会であった弘前教会も大勢に従い普通の教会となった。
 しかし、敗戦から約一〇年ほど続いたキリスト教ブームの時代に、弘前では藤田恒男牧師が八面(めん)六臂(ぴ)の大活躍をし、多くの求道者が教会の門をくぐり、多くの受洗者が与えられた。東奥義塾も再びキリスト教主義の旗印を掲げ、弘前学院(昭和二十五年弘前女学校を改称)も日本の地に帰ってきた宣教師を迎えて活気ある教育を展開した。
 東奥義塾に配属になったセイムス師とパロット師のバイブルクラスには、東奥義塾の生徒のみならず、弘前高校、弘前中央高校などの生徒も参加し、寝食をともにすることもあり、若者たちに深い感化を与えた。パロット師は津軽各地を高校生の通訳を連れて探求に歩いた。