町村合併促進法の施行を受けて、県は県下一四ヵ所に自治相談所を設けた。弘前市と中津軽郡一六村の相談所は弘前市警察署会議室で開催された。昭和二十八年(一九五三)十月二十六日のことである。しかし中津軽郡各村は弘前市との合併に冷淡で、反対意見も多かった。当時の弘前市は極度の赤字財政だった。借金が多く税金も高い弘前市との合併には、どの村も魅力を感じていなかったのである。昭和戦前期に一部合併となった和徳村でさえ、市に財源をとられ苦労した経験があった。合併問題でまず重視されることは財政問題である。もちろん中津軽郡各村も自らの財源が苦しかったのは弘前市同様であり、合併問題は他人ごとではなかった。そのため当初は各村とも、村同士の合併ならば考慮するとの意向が濃厚だったのである。
当時の弘前市長桜田清芽は、和徳、藤代、大浦、駒越、清水、千年、堀越、豊田の八ヵ村との合併を考慮していた。市長の意向は昭和二十八年十一月二十四日作成の「新弘前市建設促進要領」にまとめられていた。しかし全国各地の合併形式が、市制の施行と大規模町村の設置に向かい、自治庁(のち自治省、現総務省)も大町村主義を志向したため、合併問題は総じて大規模化した。弘前市や県が当初考えていた合併計画は修正を迫られた。とくに町村合併の段階で市が設置され、市に町村が編入する場合も考慮されると、弘前市と中津軽郡一六村全部との合併問題が検討されだした。いわゆる「大弘前市」構想である。十二月二十六日の弘前市と中津軽郡一六村の合併促進懇談会では、小町村間の合併は意味がないとの意見まで出た。桜田市長も合併案は当初打ち出した八、九ヵ村に限定しないと発言し、合併問題は新たな段階に入った。
弘前市と中津軽郡一六村の意向とは別に、県ではむしろ中弘地区は中規模合併の方向が望ましいという見通しを立てていた。昭和二十九年二月一日、県は青森県町村合併促進審議会の第一回総会の場で「青森県町村合併第一次試案」を諮問した。中弘地区は①弘前市、清水村、和徳村、豊田村、堀越村、千年村、②大浦村、岩木村、駒越村、③藤代村、高杉村、船沢村、④新和村、裾野村、⑤西目屋村、東目屋村、相馬村の五ブロックが合併対象に想定された。弘前市は①を当面の合併対象とするが、②と③も将来的には弘前市へ編入するという含みをもたせたものだった。この案に基づき中郡町村会は懇談会を計画し、各村理事・村議会議員同士の間で協議に入った。しかしまだこの段階では、合併後の議員の身分保障に質問が集中するぐらいで、大した議論も出なかった。
中弘地区の合併問題は県との構想の違いもあって、なかなか進まなかった。そのため県が弘前市の合併計画に介入しだした。弘前市も市の発展が南方に広がりつつあり、弘前電鉄の開通もあって、南津軽郡石川町との合併も考慮し始めた。四月二十三日、県と市で中弘地区の合併案を検討した結果、東・西目屋村、裾野・新和両村が合併計画から外され、中弘地区一帯の合併計画は大幅な修正となった。二十七日、この結果に基づいて県主催の合併説明会が開催された。県と市はもちろん、関係村の村長・助役・議長・副議長が参加した。説明会では合併に対する種々さまざまな意見が出されたが、桜田市長は合併で得た財政力は関係村に還元し、弘前市の従来の赤字は決して関係村に転嫁しないと明言している。
弘前市が郡を越えて南津軽郡石川町への接近をはかっていたころ、裾野村と新和村も郡を越えて北津軽郡板柳町との合併を考慮しだした。七月二十四日、県の第二次試案(原案)は、第一次試案で対象としていた一六村から裾野・新和両村を除き、別に石川町を加えた一五町村を原案として打ち出した。けれども郡を越えた合併交渉は、生活圏の関係や歴史的関係もあり批判が高まった。八月十二日、県の合併促進審議会は原案から石川町を除き、代わりに裾野村を加えた一五村の合併を、県の第二次試案として答申した。県はこれを受けて九月十三日に告示を行っている。