県は第二次試案を示すとともに、中弘関係市村に合併促進協議会をつくらせることにした。昭和二十九年(一九五四)八月三十一日、任意の中弘地区市村合併促進協議会を結成することで各市村は合意し、会長には桜田弘前市長が就任することに決した。新聞社説は、合併の効果を認めながらも感情的な反対論が根強くあり、弘前市の内部でさえ議会内に、大選挙区の不利を考慮して小規模合併をせよと主張する議員がいると批判していた。各紙はいずれも合併問題の難産を予想し悲観的な論調が強かった。合併交渉の関係者と、議会、そして各市村民の間の利害関係は相当にかけ離れていた。地位や身分にこだわる市村幹部や議会勢力、生活圏の問題から感情的に走りがちな住民がいるかぎり、利害関係が複雑となり感情的な意見が露呈するのは仕方がなかった。
合併交渉が本格化したことに伴い、協議会は関係一五村に合併促進の啓発宣伝を兼ねて座談会を開催した。座談会では各村ごとにさまざまな意向が出された。しかし合併に反対の傾向を強めていた西目屋・駒越・相馬の各村は協議会からの脱退を表明した。九月七日付の『東奥日報』は中郡各村の動向に対し、近村同士の合併が望ましくも、互いの利害関係から実際には市との合併に反対する傾向が強かったと掲載している。「大弘前市」構想が頓挫したのも、村の幹部と村民の間に相当の開きがあり、県の試案がたびたび変更して、弘前市政に根強い批判があったからだという。
九月十二日付『讀賣新聞』は、合併が遅々として進まない理由を、合併各村の指導層が最大の関心事としている合併後の身分保障問題について、弘前市が意思表示をしないためだと指摘した。と同時に村の指導層が一身上の利害にとらわれ、二の足を踏んでいることも原因だと批判している。いずれにせよ新聞は合併交渉の混乱要因に、住民の意向が反映されていないものがあることを鋭く批判していたのである。
十一月七日、任意の合併協議会は法定協議会への移行を確認し、協議は進展を見せるが、中弘地区の合併交渉を気を揉みながら見ていた県は、十一月二十七日、地方自治法第八条の二第一項の規定により、「市町村規模の適正化について」と題する合併勧告を県告示として公示した。県の勧告を受けて、各村の動きは複雑な様相を示しだした。各村の住民の間でも合併の賛否をめぐって分裂・紛糾し、合併交渉は締結・否決を繰り返した。しかし県の強硬な姿勢は一定の効果を上げている。紛糾と混乱はあったが、新弘前市建設に向けて一定の方向性が見えてきたからである。
西目屋・駒越・相馬の各村は、結局法定協議会に参加しなかった。これが影響したのか、かねてから胎動のあった岩木・大浦・駒越三村の局地合併が本格的に動き出した。三村の合併交渉は以前から始められていたが、県との関係、複雑な住民相互の意思、弘前市との合併関係などをめぐって逡巡していた。だが県の勧告を受けて三村の意思に変化が生じたのである。なお、第二次試案から外されていた新和村は、このときから弘前・中郡との合併交渉に参加することになった。