桜田市政と合併対策

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市町村合併が国から要請されていたときの弘前市政は、まさしく財政難の極致にあった。それゆえに国は合併を推進して弱小な自治体を改革する方針を打ち出した。県はすでに昭和二十九年(一九五四)二月二十七日に町村合併促進啓発宣伝実施要領を示し、町村合併促進審議会を中心に啓発宣伝をするよう指示していた。言論報道機関を活用しての宣伝をはじめ、懸賞論文の募集、町村合併促進週間や講演会の実施などが示されていた。市町村に対しては自治相談所を開設して議会や理事者に啓発宣伝をし、部落座談会や懇 談会を開催して一般住民の世論を形成するよう要請した。また広報活動としてパンフレット・リーフレット・チラシなども活用するよう指示をしている。
 その一方で、県は市町村当局に対しても、議員研修会・部落座談会・合併準備会を結成するよう要請している。市町村の広報に合併促進記事を掲載させたり、公民館活動・青年団活動を活用して、学校教育の教材にも合併機運を盛り上げるようなものを取り込んだ。県の宣伝対策はその多くが実践され、市町村当局もその促進に努めたが、そのなかで大きな役割を果たしたのが、自治相談所と『町村合併ニュース』であろう。
 自治相談所自体は、昭和二十八年九月の段階で県が開設している。講師役には市町村合併促進協議会委員のほか県地方課長と課員がなり、市町村長・助役・収入役・議会議長・副議長・教育委員代表・郡町村会長・郡議会会長を参集して実施した。相談所は県内各地域ごとに開設され、各会場ごとの特殊性を考慮して適宜質疑応答形式をとった。県は町村合併の必要性とその促進を基本的に説明し、質疑応答することとした。相談所自体は県が合併促進を前提に上から啓発宣伝を行う様相が強かった。事実、第二回開催以降は参集者が市町村当局者から青年団・婦人会などの団体役員や農協役職員、そして部落代表、一般住民へと広がっている。上意下達的な宣伝活動は、非常に効率的で世論形成上からも効果を上げやすい。しかしその分、幹部級の意向で方針が専断される傾向も強く、議員や首長の身分保障が優先される場合が多かった。
 県は啓発宣伝用としてメディアを重視し、『町村合併ニュース』というタブロイド版の新聞を発行した。『町村合併ニュース』は昭和二十九年四月一日を創刊号に、毎月一日に刊行される月刊新聞の体裁をとっている。二面刷りで部数は一〇〇〇部、全市町村を対象に配布された。町村合併に関する情報を中心に、中央官庁からの通達を解説したり、質疑応答を掲載するなど、一般住民対象の広報的役割を期待したものである。
 このほかに県当局では『県政のあゆみ』を県の広報として発行し、町村合併の啓発宣伝資料として活用している。県審議会をはじめ、市町村や弘前市当局は合併促進のためラジオ放送をしたり、標語を募集するなど、積極的な宣伝に努めた。
 田市長はこうした宣伝活動で常に先頭に立ち、合併成立に邁進した。その結果、紆余曲折を経て市町村合併は成立した。合併の結果、弘前市は七万人弱から一四万人近くまでに人口が倍増し、もっとも市を苦しめていた赤字も大幅に減少した。田市政の大胆な行政改革が大きな合併を可能にしたのである。けれども田市長は合併終了後の市長選挙に落選した。当時の市民は合併成立を果たした田市政よりも、新しい市政に期待し、新しい市長を選択したのである。赤字財政で田市長は本当に望んでいた事業を展開できなかったうらみがあった。行政改革市町村合併で生じたひずみが、田市政への批判につながったのはやむを得まい。けれども田市長は今日の弘前市の産みの親である。