昭和三十年前後に全国的規模で行われた町村合併を境に、市は合併建設五ヵ年計画を立て「新弘前市」の建設を意図した。当時の弘前市は農業を中心とした市の建設を目指していた。
市の合併建設五ヵ年計画は、理念・構想をはじめ事業計画の安定性の点から、農林省(現農林水産省)や自治庁からモデルケースとして注目されていた。弘前市は農林省から、市としては異例に属する農村建設特別指定地に指定される段階にあったのである。
この合併計画推進に当たっての予算も、社会労働施設費、教育費、市役所費に次いで農政関係予算が計上された。市が生産都市を目指し、農政に比重を置いていたことがわかる。弘前市が合併でどのような変貌を遂げるのかが、日本全体から注目されていたわけである。ところが実際には「新弘前市」の建設には相当の問題点があった。
弘前市とその近郊を中心に購読者をもつ『陸奥新報』は、「弘前市建設計画の盲点」という社説(昭和三十年六月三十日付)で、「新弘前市」建設に対する痛烈な批判を展開している。社説は市議会議員の言動を引いて、市の建設計画が高い理想を掲げている点を評価しつつも、これを受け入れる農民層に正しく理解され支持されなくては意味がないと指摘した。そして農民層に正しく理解され支持されない理由として、新しい改革的計画に必要な啓蒙・宣伝対策に、市当局が「ほとんど無関心の状態にある」からだという。
弘前市の合併建設計画がモデルケースとして注目される理由は、周辺農村の購買力のみに依存してきた旧弘前市と、第一次産業の域から脱皮できず、依然低い生活水準にある新弘前市とを一体化し、地場産業育成の方向、第二次産業発展の方向に導こうとする点にあった。そのためには新弘前市民の「物の考え方」が大きく変わらなければならない。現在の農民層の「物の考え方」を新しい方向に目覚めさせない限り、計画の円滑な実施は望めないというのである。
『陸奥新報』はさらに、農民層を納得させるだけの啓発力と政治力が伴わねば、計画は知識人の自己満足にすぎないとも指摘している。多くの改革的な要素をもつ諸計画も、障害に突き当たって事業の振興が完全に行き詰まってしまう危険が多分にあるという。この点は何も当時に限らず、現在でも通じる提言といえよう。行政は計画を立てることには常に熱心である。予算を獲得し一定期間事業を進めて決算するというシステムである以上、行政にとって計画は何よりも大切な業務といえよう。しかし行政が公的機関であり、営利追求とは無縁であることから、啓蒙・宣伝活動がおろそかになるのは多々ある。
情報化社会といわれて久しい現在、ますます啓蒙と宣伝が必要となった。コンピューター社会となり、啓蒙と宣伝が正邪、好悪、成功・失敗など、あらゆる価値観の鍵を握る社会のなかでは、なおさらである。