福祉事業の推進

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新弘前市」の施政計画のなかで住民の要望をもっとも反映したものの一つに福祉事業の推進があった。戦後の混乱を経験した市民は、何よりも戦後補償に関心をもち、公共団体からの福祉事業を期待していた。合併の対象となった町村にとっては、その福祉事業の行方は重要問題である。そのため周辺の町村を吸収した弘前市は、まず市営事業の推進による福祉行政を充実させた。
 社会福祉事業の振興のために補助金の交付を求めるなど、福祉事業推進のために財源を求める市民の動きは強かった。市議会にも同様の陳情は多数寄せられている。そこで昭和三十七年(一九六二)三月十日、藤森市長は弘前市社会福祉協議会の事業助成に関する条例案を市議会に提出した。これは昭和二十六年に成立した社会福祉事業法の規定に基づき、市が社会福祉協議会へ助成することを定めた条例案である。具体的には低所得者または援護・育成・更生の措置を要する市民の自力更生を促進するために、市が協議会に補助金を交付する施策だった。条例案は市議会での審議の結果、三月二十六日に可決され、四月一日から施行された。
 このほかに「新弘前市」の福祉事業として特筆されることは、児童福祉の充実だった。これは戦後の混乱のなかで戦災孤児が多く生じ、それが社会問題となっていたことに起因している。しかし保育所や養護施設の多くは、戦後の混乱と市の財源難から、決して充分な体制を整えてはいなかった。私立の保育園や養護施設は、他に財源を求めることもできず、経営の労苦は並大抵のものではなかった。昭和三十四年九月、弘前市内の私立保育園団体の代表は、市議会に保育所の財政危機と設備の不十分さを訴え、補助金要請の請願を提出している。
そのほかにも、昭和三十七年十月二日、市議会で弘前市に県立の知的障害児童施設を要望する意見書が発議され、採択された。青森県内の知的障害をもつ児童を養護する施設は青森市の県立八甲学園のみであり、弘前市だけでも該当する児童が二五〇人にのぼる現状から、彼らの収容施設が必要だというのである。弘前市には弘前大学医学部や教育学部があり、施設の運営に必要な指導協力が得られる態勢にあるというのも、設置を要望する大きな要因だった。まさに学都弘前ならではの発議理由だったが、この意見書は実らず、一部県の補助金を得て、市が自ら設置することになった。四十年、市内中別所に収容人員五〇人の弥生学園が開設された。
新弘前市」は福祉政策の充実とともに、学都の建設と符合した形で、教育施設の拡充や市民会館博物館、文化センターなど社会文化施設の設置に力を入れていくのである。