学都充実への要望

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昭和二十四年(一九四九)七月に弘前大学が開学した。十二月十四日の市議会で「弘前大学施設充実に関する陳情について」緊急動議が提出された。小野吾郎議員は、学生の応募、入学状況が芳しくなく、教授の宿舎、図書や研究施設が不足する等憂慮すべき事態にあり、来県した文部省視察員が全国的に見て弘前大学の現状は最悪で、早晩起こる国立新制大学整理の対象になると警告していたことを報告した。また小野議員は野辺地分校が非常に不振であるため、八戸市が教育学部の誘致を交渉しだしたことを報じ、これも弘前大学の施設が貧困のためであると発言している。さらに貧弱な財政下、六・三削の導入で義務教育設備に多額の費用をかけ、時敏、朝陽二校を火災で焼失したにもかかわらず、旧五七連隊跡地三万坪を確保したのも、大学設置を完遂し学都弘前を創出するためであると主張した。
 小野議員の発言は、弘前市が学都として発展するほか道はないことを顕著に示していた。それは次の発言からも理解できよう。
商業都市、政治都市としての青森市、漁港、貿易港、工業都市としての八戸市はそれぞれ洋々たる前途を有するに対し生産都市としての実力と条件を欠く我が弘前市は総(すべ)ゆる学徒、文化都市たることが唯一の活路であり、これを通じて将来の発展を図る以外打開の途(みち)がない現状におかれて居るのであります。

 小野議員は、この緊急動議を締めくくるにあたって、大学設置に要する地元負担の創設費を捻出するために「県の力と県に主導して頂く他に途はありません」と結論づけた。要するに県が主体となった事業であるがゆえに、県が「弘前大学のために約束した責任を一刻も早く果」たすことを県知事に陳情せよというのである。そしてこの緊急動議は満場一致で可決された。弘前市の危機感も、結果的には県に資金を依存せざるを得ないという点に集約されてしまったのである。