和徳地区小学校統合問題

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弘前市に合併前の旧中津軽郡和徳村には、明誠(撫牛子)、静修(大久保)、養正(向外瀬)の三校が鼎立し、いずれも六学級の小規模校であった。三校とも老朽危険校舎であるところから、市教委は三校を統合して、旧和徳村一校の適正規模とし、教育の向上を図ろうとした。これは、本市における学校統合第一号として教育行政上重要な意義があり、市教委も慎重審議の結果、昭和三十年三月統合建築予算の計上をした。
 三校統合は市村合併以前の和徳村議会で決定済みであり、すでに用地も買収されていたが、用地が明誠地区に片寄りすぎているという理由から、静修、養正地区から猛反対を受け、統合校舎建築は挫折していた。市教委は最初から難問を抱えた地区に、学校統合第一号の校舎を建設しようとしていたわけである。
 市教委は三地区の世論聴取を行ったが、明誠地区を除いて静修も養正も三校統合には賛成であったものの、予定の敷地に建設することには絶対反対であった。それに対して、市教委の態度も確然としなかった。昭和三十年当時、合併直後の措置として、教育委員は、旧市五人、合併一一ヵ村から推薦された各一人、計一六人で構成されていたからである。一六人の教育委員が各自勝手な思惑を述べ、中には傍聴の三学区民に対してスタンド・プレーを行う者もあって、会議は紛糾を重ねた。
 結局、笹森教育長は多数の意見を汲んで、明誠、静修の統合校舎を予定敷地の大久保字西田に建築することとして、三十年八月二十三日に開かれた教育委員会に議案として提出した。建築敷地に不満の静修学区民は統合反対を叫んで市内をデモ行進し、隊列を組んで市教委庁舎に押し寄せた。原案どおり可決されると、怒り狂った反対学区民は怒号し、罵声、暴言をほしいままにし、市教委も紛糾を収拾するため昼夜を分かたず奔走したが、事態はなんら進展をみなかった。
 この紛糾は全面解決まで実に一三年を要し、昭和四十二年二月二十三日、明誠と静修の統合(養正小学校は昭和三十五年時敏小学校と統合)が本決まりとなってようやく円満解決をみた。

写真190 新築なった城東小学校

 城東小学校統合問題は、紛糾の根の深さにおいて、社会問題として県下に衝撃を与えた。紛糾の問題点はただ一点、統合校舎とする城東小学校敷地の位置にあった。その場所は弘前市へ合併前の旧和徳村村議会ですでに決定済みであった。通学距離の遠近が表面上の争点であったが、その背後には永年にわたる和徳村各大字間の利害得失や政治的確執が、学校統合を契機に表面化したと見るべきであろう。