昭和三十年代後半は、高校進学者が急増した。戦後のベビーブームを反映して、中学生浪人が続出することは目に見えていた。このため、県としては既設高校での増員のほかに新しい高校を増設することが急務となった。こうして誕生した高校の一つが青森県立弘前南高等学校である。募集定員は、普通科三三〇人(六クラス)で、当時は市内で唯一の男女オープンの選抜だった。開校式は昭和三十八年(一九六三)四月六日に挙行された。生徒は一年生だけなので、入学式と始業式を同時に行った。初代校長は、開設準備委員長であった小野正文である。
校地に選ばれたのは、市内小沢大開(現大開四丁目)で、ここは旧藩時代は演習場であり、また、第八師団の練兵場でもあったところである。開校時の校舎は、第三一連隊の兵舎を旧清水中学校が改修して使用していた建物であった。しかし、翌三十九年には、近代的な鉄筋コンクリート造三階建ての新校舎が完成し、恵まれた自然環境のなかで教育が始まった。
開校した年は、アメリカのケネディ大統領が暗殺されるという事件があり、日本では東京オリンピックの準備に忙殺されていた。また、東海道新幹線が開通したこともあり、活気に満ちていた時でもある。校訓として掲げられている「自由・規律・友情」は、南高校の基本精神として自由闊達(かったつ)な校風を醸し出し、その後も脈々として受け継がれ、現在に至っている。
弘前南高校では、開校当初から男子生徒の長髪許可に対する関心が高く、市内高校ではすでに長髪の自由化が進んでいた。三十九年の南校祭ではこの男子生徒の「長髪是か否か」をめぐって討論会が開かれた。時代の趨勢でもあり、四十一年に至って生徒の要望が認められた。
初代小野校長の転任に伴い、四十四年、山辺将二郎が赴任してきた。山辺校長は、多年の経験を生かして、学習指導や生徒指導に力を入れ、また、学校施設の設備の充実にも奔走している。次いで、四十六年に着任したのは、南高校創設のために補佐役を務めた鈴木忠雄校長である。鈴木校長は、手始めにバイク通学の禁止をした。南高校は国鉄弘前駅から約五キロ、通学にはかなり不便なので、バイクで通う生徒も少なくなかったのである。しかし、バイクには事故がつきものであったので、あえて禁止に踏み切ったのである。このほか、制帽の自由化の問題もあったが、これは生徒会臨時会で話し合われ、その後学校側が許可している。長髪で無帽の生徒が多かったのも時代の風潮であろうか。
四十四年、弘前南高校は、青森東、八戸北とともに普通科を転換して理数科一学級を新設した。高校教育の多様化を目的とした施策の一環で、全県一学区としてどこからでも志望できるようにしたものである。この理数科は、五十四年に至って募集を停止し、一〇年余の短い歴史に幕を閉じた。