予想に違わず、その後の活躍は枚挙にいとまがないが、まず特筆すべきは、県立移管がなされた翌年のインターハイで男子団体体操が念願の全国初優勝を果たして、これに花を添えたことである。これは、県高校総体で団体徒手器械の一九連勝の大会記録樹立という実績の積み重ねがあったからである。さらに次の年のインターハイでの二連覇は、体操弘実の名を全国に知らしめることになった。
スキー部も名門の聞こえが高い。東奥義塾とは常によきライバルとして、県下はもちろん、全国的にその勇名を馳せることになったのは、四十六年に米沢市で開かれたインターハイでの初優勝と、翌年地元大鰐町で開かれたインターハイで、直前の県大会の優勝は東奥義塾に一歩譲ったものの、二度目の全国制覇を遂げたことにあり、以後スキー王国青森として君臨していくのである。卓球にも実績があり、まず三十六年には男子が東北大会で総合優勝に輝いている。女子の活躍もめざましく、四十三年の県下新人戦で団体優勝をしたのを皮切りに、男女とも好成績を積み上げた。
弘実になってから県下高校総体での総合優勝は、四十六年になってからである。前記のほか、陸上、駅伝、相撲、柔道、バドミントンなど幾多の光輝ある歴史を有する部を持ちながら、弘実に統合して以来、県下高校総体の総合優勝がなかったのは、むしろ不思議なぐらいであった。しかし、この年、弘実は各競技でむらなく得点を上げて「闘魂旗」を獲得、以後三連覇の快挙を続けることになる。
体操、スキーに次いで、全国に弘実の名を高からしめたのは再三にわたる相撲の全国制覇である。県下での初優勝は五十二年になってからだが、五十四年に全国高校相撲高知大会で団体優勝をすると、立て続けに全国の大会を総なめにし、これを祝う市内パレードは市民の明るい話題となった。翌五十五年にも高知大会で団体優勝を遂げ、以後、全国レベルの常勝・常連校として、「弘実強し」と恐れられる黄金時代が続くことになるのである。硬式野球も善戦しており、五十四年、五十九年と二度の甲子園出場を経験したが、初戦を突破するのは時代が平成に代わってからである。
写真200 相撲部全国優勝市内祝賀パレード(昭和61年8月11日)
弘前実業校の部活動の特色は、日常の授業と結びついて、珠算や速記などの大会にも挑戦し、着実に上位を占める成績を上げていることである。文化的な面では美術にも力を入れており、大潮展などの展覧会で毎年のように特選、大賞に入選し、県総合文化祭では美術部門優秀賞を受けている。このほか、ブラスバンドの活動も伝統的なもので、東北大会での優勝経験があり、「弘実のブラバン」として広く親しまれた。