市町村合併前後から住民の保健衛生に対する要望や苦情が数多く寄せられるようになった。環境衛生対策に関するさまざまな陳情が寄せられた。とくに住民からの要望が強かったのは、し尿処理と塵芥処理だった。これは合併以前からの住民の強い要望でもあった。そのため藤森市長は、昭和三十二年(一九五七)度の施政方針と予算編成に当たり、し尿処理場と塵芥処理場を併設するため、一〇〇〇万円の予算を計上し、環境衛生問題を解決すると声明した。
合併前後から弘前市の保健衛生対策は本格始動している。これは長年、市の財政が赤字状態だったことと無縁ではないだろう。幸いに昭和三十年の合併により、赤字財政が一応解決したのを受けて、藤森市長は将来の発展のため積極的な施策を講ずることができると声明したのである。市町村合併後の弘前市当局が策定した五ヵ年計画でも、厚生施設の整備を掲げ、保健衛生施設の充実をうたっている。前述した塵芥とし尿処理のほかにも、市立総合病院の創設と国民健康保険事業の健全な発展も計画に盛り込まれていた。
五ヵ年計画に盛り込まれた市立病院の創設は、青森県厚生農業協同組合連合会津軽病院が、昭和三十三年十二月一日付で弘前市に買収移管されたことで示された。これにより同津軽病院は、弘前市国民健康保険直営の津軽病院として発足することになった。津軽病院自体は昭和六年九月に有限責任購買利用組合津軽資生療院として市内富田に設立され、翌年土手町に移転して津軽病院と改称している。その後は昭和十八年に青森県農業会病院、同二十三年には青森県厚生農業協同組合連合会病院に継承されるなど、複雑な経緯をたどっていた。
津軽病院の市移管は、昭和三十三年十二月二十七日に、新しい国民健康保険法が公布されたことに大きく関係していた。市町村民は居住する当該市町村の行う国民健康保険へ強制加入することが義務づけられた。その代わり加入者は国保直営の病院を利用する便宜を与えられた。市に買収移管され、弘前市国民健康保険津軽病院と改称された後も、病院の陣容や施設などは従来どおりとされた。実質的に津軽病院は市民の病院としての利用が期待されていたのである。
ところが昭和四十四年一月三十一日、津軽病院は不運にも火災に遭い全焼してしまった。本格的な総合病院としての設備と機能を求める市民の要望は強かった。そのためもあって同四十六年四月一日、津軽病院の再建工事が終了した際、弘前市立病院と名称を変えて開設されることになった。初日は約六〇〇人の外来患者が押し寄せた。これにより火災に遭った津軽病院は、市役所隣の分庁舎に設けられていた仮診療所を三月二十六日で閉鎖した。けれども病院組織と運営自体は、とぎれなく市立病院に受け継がれることになった。
清掃事業を促進し、病院を完備するほかに市の行政が力を入れた衛生事業が、水道施設の整備であろう。衛生対策の根幹として、清潔な水を確保することは不可欠であるし、下水の浄化設備が必要なのはいうまでもない。次に弘前市の水道問題について言及しておきたい。