少年たちを熱狂させた紅緑(本名・洽六(こうろく))自身の少年時代は、しかし、無類の乱暴者で喧嘩の絶えない毎日であった。明治七年、青森県第三大区一小区(現弘前市親方町)に父・弥六、母・支那の次男として生まれる。頑固で変わり者であった弥六の奇行は数多いが、自由奔放な紅緑の気質はこの父から譲り受けたものと思われる。二十三年、朝陽尋常小学校を卒業し、東奥義塾に進学するが、教師と衝突、青森県尋常中学校(現弘前高等学校)に入学する。在学中、校友会誌「校友」(同前No.七二〇)に文章、和歌、長詩を掲載していることは注目に値する。また、当時弘前柾木座で演劇会を観るなど芝居にも興味を示していた。中学校は、しかし四年で中退を余儀なくされた(資料近・現代2No.六七〇)。
明治二十六年の上京は紅緑にとって大変重要な意味を持つ。二人の生涯の師に出会ったからである。一人はすでに触れたことだが、郷土の先達で、言論界の雄である陸羯南である。紅緑は思想的にも大きな影響を羯南から受け、そして、生涯にわたって羯南を師と仰いだことは、いうまでもない。
もう一人は羯南の庇護を受けていた正岡子規である。子規との出会いは、紅緑の俳人としての才能を開かせる端緒となった。紅緑という俳号は子規の命名である。紅緑は、病を得て帰郷した二十八年に、本県の俳壇に日本派を唱導する一役を担った。子規門下生として、俳人紅緑の文名は高まった。しかし、俳句に限界を感じていた紅緑はしだいに散文の世界へ足を踏み入れていく。