(一)私小説の神様・葛西善蔵

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 葛西善蔵は〈私小説の神様〉とも、また、〈極北〉とも称され、わが国を代表するリアリズム文学者である。善蔵の活動期はほぼ大正期に重なる。したがって、善蔵は芥川龍之介とともに大正期の日本文学の両雄と高く評価されている。
 明治二十年一月(一八八七)十六日、中津軽郡弘前町松森町一四一番地に長男として生まれている。二十二年、家が没落して、北海道後志国寿都郡寿都に一家転住。以後、今でいう青森市、五所川原市、碇ヶ関村を転籍しながら、三十五年に初めて上京した。三十六年の冬に北海道へ渡り、鉄道車掌、営林署員などに従事した後、三十八年に再び上京。四十一年三月、浪岡村平野弥亮の長女つると結婚。翌月に単身上京し、徳田秋声に師事したが、六月には帰郷し、碇ヶ関村でぶどう園の小屋に滞在したのも束の間、九月にはまたも上京を繰り返す。
 四十五年九月、同人誌「奇蹟」に加わり、葛西歌棄の筆名で処女作「哀しき父」(同前No.七二六)を発表した。しかしながら家計は困難を窮めた。大正八年三月に第一創作集『子をつれて』を上梓し、注目を集めた。
 ところで、石坂洋次郎が善蔵が住んでいる鎌倉の宝珠院を訪ねたのが、大正十二年の七月であった。善蔵と洋次郎のことについては、次項で触れるが、十四年七月、当時弘前高等女学校の教員をしていた洋次郎に、善蔵が経済的にも精神的にも多大な負担をかける。それが原因で洋次郎が善蔵から〈遁走(とんそう)〉したものと思われる。
 昭和三年(一九二八)七月二十三日、午後十一時八分永眠。享年四十二歳。弘前市新寺町の徳増寺に納骨されている。
 昭和三十一年(一九五六)七月二十三日、碇ヶ関村の三笠山に文学碑が建立された。碑文は「椎(しい)の若葉」の一節「椎の若葉に光あれ 親愛なる椎の若葉よ 君の光の幾分かを 僕に恵め」である。

写真247 葛西善蔵