人生の師・福士幸次郎と出会う

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官一は、かなり早い時期から文学を志していたようである。公恵夫人は次のように述べている。
 今官一は、作家になることを、ほんの子供の頃に選んだ。
 その意図を表明したのは、十三歳のときであった。東奥義塾入学の際、笹森順造塾長に「きみは、将来なんになりたいのかね」と訊ねられた官一は、「文学者になります」と答えた。彼の人生は、その意図によって方向づけられた。
(特別展「今官一展」平成十五年七月 青森県近代文学館刊)

 入学の面接のときに〈文学者になる〉決意を表明したということは、それ以前からすでに文学に相当親しんでいたことを意味する。末弟の今禮三は、父・官吾は大変な蔵書家であったと語る。世界文学全集もその中にあった。後にロシア文学を選んだことを考えると、あるいはその全集の中でドストエフスキーの名に、すでに接していたかもしれない。そして、官一が中学四年のとき、福士幸次郎が赴任する。このとき官一の将来は確定した。公恵夫人は続けて言う。
 中央壇の重鎮だった福士幸次郎が、国語教師として着任した。この純粋孤高の天才人は、たちまち塾生たちを魅了した。官一らは、幸次郎の命名による雑誌「わらはど」を発行した。
 官一の文学開眼であった。そして、幸次郎はこうも言った。-「青年よ清くあれ」。この言葉は、官一の精神の形となった。
(前掲書)

 それにしても、官一にとって幸次郎の存在は大きい。文学だけではない。その生き方にまで幸次郎は強い影響を与えた。まさに〈人生の師〉と呼ぶにふさわしい巨大な存在であった。
 大正十四年(一九二五)五月二十日に発行した「わらはど」創刊号に、官一は創作「赤い月」を載せている。驚くのは、この三枚強の小説に、後年の今官一の独自の文体、そしてロマン性に富む作風の予兆をみることができることである(資料近・現代2No.六五四)。「彼の心は無気味な幻想の世界へ引きづりこまれた」というような表現は、代表作『幻花行』(昭和二十四年刊)の一節と見紛うほどである。編輯人(へんしゅうにん)の一人に名を連ねた官一は、恩師・幸次郎の「マアテルリンク篇」で雑誌の冒頭を飾った。