寺山修司は太宰治と並んで、多くのファンをもつ作家である。作家というよりは、俳句(資料近・現代2No.六五一)、短歌、詩(同前No.六五〇)、映画、演劇、小説、評論、作詞、写真など、あらゆるジャンルを駆け抜け、「職業は寺山修司」と自ら宣言した多彩きわまりない芸術家であった。
寺山修司の世界をもっともよく知り、早くから高く評価していた文芸評論家の三浦雅士(みうらまさし)はこう述べている。
寺山修司にほんとうに驚いたのはヨーロッパの人間であり、アメリカの人間だった。自身の悲哀に気づきやすい人間たちだった。だから寺山修司のほんとうの子供たちは、同じ悲哀を抱えていまヨーロッパで活動している芸術家たちなのだ。
けれど、けっして忘れてならないのは、その悲哀に気づくために寺山修司は、故郷を、青森を必要としたということだ。いや、悲哀の核心には青森が潜んでいたということ、そしてまた寺山修司はその悲哀を表現する方法としても青森を必要としたということだ。
芸術家と故郷という主題は、芸術家と母という主題と同じほどに深い。
けれど、けっして忘れてならないのは、その悲哀に気づくために寺山修司は、故郷を、青森を必要としたということだ。いや、悲哀の核心には青森が潜んでいたということ、そしてまた寺山修司はその悲哀を表現する方法としても青森を必要としたということだ。
芸術家と故郷という主題は、芸術家と母という主題と同じほどに深い。