箏曲(そうきょく)(注)、尺八、平家琵琶(びわ)、雅楽は廃藩後も伝承を保ったが、能楽に関していえば、伝承が続かなかった。能の役者は「廃藩ニ際シ全ク職ヲ封閉ス 他産ニ転ス 糊口ノ乏シキニ至ル」と『弘藩明治一統誌 人名篇』に記されているように、職を失い四散して、新しい活動は明治中期を過ぎてからである。雅楽は藩校の稽古館では教科ではなかったが、放課後に練習が許され、箏・笙・笛・太鼓の楽器も用いられた。寛政九年に学校で釈奠(せきてん)の礼がとり行われたときに《五常楽(ごじょうらく)》《越天楽(えてんらく)》が奏されている。音楽を奨励した藩は萩藩以外稀(まれ)であったといわれる。前出の『弘藩明治一統誌』には「幸いに明治開新以来別(わけ)て音楽は流行招魂祭学校開筵式部での快楽部楽に音楽を主とする世態となり再栄を萌(めぐ)みたるは社会の鴻福なり」とある。明治初年には音楽が祭礼や学校行事にかかわって余命を保ったことがわかる。しかし、学校教育で独自の音楽が行われるようになると、活動の場を失い衰退せざるを得なかった。
(注)箏は十三弦、琴(きん)は七弦の楽器である。構造、奏法、楽曲が異なる。しかし、いずれも「コト」と呼ばれる。