前田流平家琵琶は全国でも、弘前藩の伝承だけが行われている。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」と語り始める曲調は、その伝承の古さと正しさを感じさせる。
『奥冨士物語』元禄九年(一六九六)の条(くだり)に、「六月二日御着城、十川能登豊田勾当(とがわのととよだこうとう)等御供下り。寅年より検校(けんぎょう)となる」、宝永七年の条に「四月十二日豊田検校に平家物語被仰付」と記されている。それを根拠とすれば、現代にまで伝えられた津軽の前田流平家琵琶は元禄九年に来藩した豊田勾当を鼻祖とする。津軽の座頭たちにより、また武士階級では楠美(くすみ)家が中心となって継承されてきた。『弘藩明治一統誌 人名篇』に「元御用人 楠美太素(たいそ)、士族 工藤繁司(くどうしげじ)」の名が記されている。明治期の学校行事に参加出演したのは雅楽と同じであり、和徳小学校が明治二十三年に購入した風琴(オルガン)の披露の音楽会に賛助出演した例などが記録にある。
津軽承祜(つぐとみ)の死去に際して館山源右衛門(たてやまげんえもん)が殉死した。その館山家を継ぐべく楠美家から養子に入ったのが館山漸之進(ぜんのしん)(安政三-大正四 一八五六-一九一五)であった。館山の大著『平家音楽史』(一九一〇年)は歴史、曲、奏法などが詳しい。館山の四男の館山甲午(こうご)が津軽における最後の伝承者であり、後年は仙台に住んだので、その薫陶(くんとう)を受けた伝承者、橋本敏江(はしもととしえ)、鈴木孝庸(すずきたかやす)、鈴木まどか等の人々が他地域におり、弘前を訪問して演奏会を開催し、誓願寺に「平家琵琶の碑」を平成四年に建てている。