水木音彌(みずきおとや)(明治一四-昭和二九 一八八一-一九五四)は大鰐苦木生まれ。明治三十五年(一九二〇)二十二歳でアメリカに留学し、声楽と作曲を学んだ。昭和三年帰国、翌年八月に弘前市の公会堂でリサイタルを開く。当時の『弘前新聞』の笹森順造(ささもりじゅんぞう)の紹介文によると、弘前中学校の同窓生であり、世界的なバリトン声楽家であるとしている。記事には「入場券は八十銭、土産にミルクチョコレートを進呈」とある。水木は歌曲の作曲も手がけ、旧讃美歌四一五番に作品「富士の嶺けだかく」が採用されている。
明本京静(あけもときょうせい)(明治三八-昭和四七 一九〇五-一九七二)は黒石市出身、声楽家としてデビュー、コロムビア・レコード専属の歌謡曲作曲家であった。前述の《父よあなたは強かった》がヒットし、紅の血をいや増しに燃やす意欲をかき立てた《学徒勣員の歌》などを作曲した。
木村弦三(きむらげんぞう)(明治三八-昭和五三 一九〇五-一九七八)は福士幸次郎の地方主義に共鳴し、民俗音楽を収集、『奥々民俗旋律集成 正・続』(木村弦三著作集刊行会、一九七六年・一九七七年)を刊行している。大正十二年に結成したマンドリナータ・デ・ヒロサキは定期的に演奏会を開催し、その伝統は息子の昱介(いくすけ)氏に受け継がれている。作品は一五〇曲に及ぶ。
木村繁(きむらしげし)(明治四一-昭和六〇 一九〇八-一九八五)は弦三の弟である。再興東奥義塾の一回生であり、法政大学英文科卒業後、昭和二十二年から四十四年まで弘前高校の教諭を務めた。兄と同じく、津軽地方の民謡を収集し、合唱曲『津軽の旋律』(陸奥新報社、一九五八年)を刊行して弘前市の合唱音楽に影響を与えた。
小島正雄(こじままさお)(明治四四-昭和四七 一九一一-一九七二)は、公立の小中学校、ならびに東奥義塾で教鞭をとりながら、「弘前子ども会」を活動拠点とした。子供会の舞踊劇用に作曲した作品を主として集められ、『小島正雄作曲集 思い出の曲』(一九七一年)があり、平易な歌曲、合唱曲が一二曲収録されている。他に、『小島正雄作曲集 校歌・讃歌』二九七〇年)がある。