大正三年(一九一四)、県下初の活動写真館・慈善館が新築される。八角の展望台前にはドーマーウィンドー(屋根窓)を有し、二階の窓は上げ下げ窓で、窓の上にはペディメントがついている折衷様式である。翌年の弘前商業会議所になると、シンプルなデザインで装飾を廃し、大正十二年(一九二三)の弘前市公会堂とともにゼゼッシオン(ウィーン分離派)の影響を色濃く受けた建築物が出現することになる。ゼゼッシオンとは明治三十年(一八九七)にウィーンで始まった芸術革新運動で、過去の歴史様式からの分離を意図し、わが国での最も早い作品は明治三十八年(一九〇五)に東京の住宅建築に現れるが、弘前への移入の早さに先人の国際感覚を見る思いがする。
写真298 弘前商業会議所(大正4年)
大正十年(一九二一)新築の藤田謙一(ふじたけんいち)別邸は、当時の代表的な邸宅様式で造られている。弘前高等学校外人教師官舎もこの部類に入るものである。戦勝景気を受け活発になった工場建築では、現存するものとしては富名酒造株式会社倉庫(明治四十年〔一九〇七〕、現弘前銘醸株式会社)と吉井酒造株式会社倉庫(大正十四年〔一九三九〕)があり、いずれも煉瓦造である。
なお、昭和に入ってからのものだが、昭和九年(一九三四)に建てられた高谷英城別邸の洋館はコンクリート造二階建てで、フラットな軒の造りや、随所に大谷石を用いて、アメリカの建築家フランク・L・ライトの設計した帝国ホテル(大正七年~十一年〔一九一八~二二〕)風に造り上げられている。先述のゼゼッシオン風の弘前市公会堂といい、高谷別邸洋館といい、時代の流行に敏感な弘前人の気質を見るようで面白い。
写真299 翠明荘(旧高谷英城別邸)(昭和9年)