石炭を掘る
石炭を掘り出すには?
むかしの人はどうやって石炭を掘り出していたの?
明治から大正、昭和へと、100年以上にわたって石炭を掘っていました。
最初はツルハシやスコップなど手で使う道具を使っていましたが、だんたんと機械を使うようになって、より早く・より多くの石炭が掘り出せるようになりました。
最初はツルハシやスコップなど手で使う道具を使っていましたが、だんたんと機械を使うようになって、より早く・より多くの石炭が掘り出せるようになりました。
石炭を掘るには、まず石炭を掘り出す場所を選びます。
次に、石炭は地中のふかーい場所にあるので、石炭のある場所まで長いトンネルを掘ります。このトンネルのことを坑道と呼びます。
地上から地下深く、まっすぐ垂直に掘るのを「竪坑」、地上から斜めに掘るのを「斜坑」と言います。
次に、石炭は地中のふかーい場所にあるので、石炭のある場所まで長いトンネルを掘ります。このトンネルのことを坑道と呼びます。
地上から地下深く、まっすぐ垂直に掘るのを「竪坑」、地上から斜めに掘るのを「斜坑」と言います。
竪坑は、地面からまっすぐ垂直に掘った穴の上に竪坑櫓という大きな櫓を建て、その上に大型のヘッドシープ(滑車)を設置し、ヘッドシープにワイヤーをかけて大きなケージと呼ばれるカゴをつるしてます。
ケージのなかに石炭や働く人を乗せて上げ下ろしていました。
ケージのなかに石炭や働く人を乗せて上げ下ろしていました。
エレベーターみたい!
飯塚市鳥瞰図に描かれている製鉄所二瀬出張所の中央坑の竪坑は明治44年に完成しました。
飯塚市内でもっとも深いもので、345メートルもあります。
明治期の日本三大竪坑の一つです。
飯塚市内でもっとも深いもので、345メートルもあります。
明治期の日本三大竪坑の一つです。
二瀬鉱業所の竪坑にかかった工事費用は、当時の金額で百数十万円といわれています
今のお金だといくらになるのかな?
むかしのお金と今のお金をくらべるのはなかなかむずかしいのですが、
会社どうしでモノの売ったり買ったりする値段の移りかわりをあらわすモノサシで計算してみましょう。
これを企業物価指数といいます。
会社どうしでモノの売ったり買ったりする値段の移りかわりをあらわすモノサシで計算してみましょう。
これを企業物価指数といいます。
まず明治44年当時の1万円が現在ではいくらになるのか計算します。
859.4(令和4年企業物価指数)÷0.610(明治44年企業物価指数)=1,409倍
つまり、明治44年当時の1万円は、今だと1,409万円になるということです。
859.4(令和4年企業物価指数)÷0.610(明治44年企業物価指数)=1,409倍
つまり、明治44年当時の1万円は、今だと1,409万円になるということです。
二瀬鉱業所の竪坑にかかった百数十万というのは、えっと・・・・
では150万として考えてみましょう。
計算すると、150万×1,409=21億1,350万円。
21億1,350万円の費用がかかったということです。
計算すると、150万×1,409=21億1,350万円。
21億1,350万円の費用がかかったということです。
えー!!
とてもたくさんのお金がかかりました
坑道ができたら、最後に崩れないように柱を立てて壁を支えて完成です。
ここからは人の手によって石炭を掘りますよ。
ここからは人の手によって石炭を掘りますよ。
いっぽう、地面からななめに掘られた斜坑は、中にレールがあり、働く人を送ったり、掘り出した石炭を地上に運ぶトロッコが走っていました。
斜坑の入り口の近くには、トロッコを引っぱるためのロープを巻き上げる機械が置かれていました。
飯塚市平恒には、巻き上げ機が置かれていた台座が残されているので、今でもその姿をみることができます。
戦後に作られた台座はコンクリート製が多く、赤レンガの台座が残っているのはとてもめずらしいんですよ。
斜坑の入り口の近くには、トロッコを引っぱるためのロープを巻き上げる機械が置かれていました。
飯塚市平恒には、巻き上げ機が置かれていた台座が残されているので、今でもその姿をみることができます。
戦後に作られた台座はコンクリート製が多く、赤レンガの台座が残っているのはとてもめずらしいんですよ。
石炭を掘る人たち
ここから石炭を掘る作業です。
石炭を掘る人たちは地面の中の深いところまで続いている坑道に入って、石炭を掘り出します。
ツルハシやドリルを使って石炭を切り出し、切り出した石炭は地上へ運びます。
トンネルの中は暗く、熱く、たいへん厳しく危険なものだったようです。
石炭を掘る人たちは地面の中の深いところまで続いている坑道に入って、石炭を掘り出します。
ツルハシやドリルを使って石炭を切り出し、切り出した石炭は地上へ運びます。
トンネルの中は暗く、熱く、たいへん厳しく危険なものだったようです。
大変そう!
こうした多くの人たちの努力により、日本の近代産業は支えられてきました。
安全のために
坑内で一番怖いのは、目に見えないメタンガスだと言われていました。
突然吹き出したり、自然発火・爆発など、常に危険ととなり合わせでした。
このガスは爆発し大災害となることがあります。石炭の粉も爆発することがあります。
突然吹き出したり、自然発火・爆発など、常に危険ととなり合わせでした。
このガスは爆発し大災害となることがあります。石炭の粉も爆発することがあります。
そんなに危険なところで働いていたんですね。
地下の行き止まりの空間では通気が悪いと有害なガスがたまって、人が知らずに入ると気を失って倒れたりすることもあります。
明治~大正時代はガスを調べる機械がなかったので、小鳥(カナリヤ・メジロなど)を坑内に連れて行きました。
小鳥は汚れた空気に反応するので、人より早くガスの発生を検知することができました。
明治~大正時代はガスを調べる機械がなかったので、小鳥(カナリヤ・メジロなど)を坑内に連れて行きました。
小鳥は汚れた空気に反応するので、人より早くガスの発生を検知することができました。
大きな事故や災害を起こさないためにも、坑内では安全対策に力を入れていました。
坑内に入る前には持ち物検査がおこなわれ、タバコやマッチなどの持ち込みが禁止されていました。
また、もしも事故が起きてしまったときのために、救護隊がつくられ、坑内で事故が起きたときには救助などをおこないました。
坑内に入る前には持ち物検査がおこなわれ、タバコやマッチなどの持ち込みが禁止されていました。
また、もしも事故が起きてしまったときのために、救護隊がつくられ、坑内で事故が起きたときには救助などをおこないました。
石炭を掘るのってとても大変だったんだ。
危険もたくさんある仕事だったんですね。
ほかにも、炭鉱ではたらく人たちの写真を見てみましょう。何をしているところかな?