いいづかストーリー

陸路と水路が交わる文明のクロスロード

原始

縄文時代・弥生時代

大陸文化と繋がった石庖丁の里

関連キーワード:
  • 立岩遺跡
  • はるか縄文時代の人類の足跡

     今から約1万年前の縄文時代には、すでに飯塚の地に人が足を踏み入れていました。立岩丘陵では磨製石器や石斧が発見されています。川島・殿ヶ浦(遠賀川河床)から縄文土器が出土しています。

    繁栄をもたらした弥生時代の立岩遺跡

     約2000年前の弥生時代には、北部九州は稲作の先進地で、飯塚でも遠賀川の肥沃な土地を利用した稲作が行われてきました。立岩は、稲穂を摘み取る石庖丁の生産・交易で栄え、立岩遺跡からは南西諸島との交易をうかがわせるゴホウラ製の貝輪や、中国大陸との交流を物語る前漢鏡などが出土しています。立岩製の石庖丁は、吉野ケ里遺跡(佐賀県)でも出土するなど、北部九州を中心に当時の広い交易の様子がうかがえます。
     飯塚市歴史資料館では、立岩遺跡から昭和38年(1963)に前漢鏡が発見されたのを契機に、現在の西安市(かつて中国の都であった長安)から兵馬俑(複製)が寄贈され展示しています。

    古墳時代

    遠賀川流域に眠る古墳

    関連キーワード:
  • 小正西古墳
  • 川島古墳
  • ヤマト王権とのつながりがうかがえる古墳時代

     3世紀後半から各地で古墳が盛んに造られるようになります。古墳時代前期には、筑豊地区最古の古墳とされる忠隈古墳や、辻古墳が出現し、副葬品や墳形などから、近畿地方に連合政権を形成するヤマト王権の進出がうかがえます。
     中期になると、全長約80mの前方後円墳である山の神古墳が出現し、朝鮮半島との関係が深い金銅製の馬具類や鋳造鉄斧などの副葬品が発見されています。
     後期になると、桂川町の王塚古墳を代表する装飾古墳が遠賀川流域各地に築造され、飯塚市では川島古墳・山王山古墳が発見されています。墳丘内に石室が2つある小正西古墳からは巫女型埴輪が出土しています。

    古代

    飛鳥時代・奈良時代

    謎の古代遺跡、まぼろしの古代寺院

    関連キーワード:
  • 鹿毛馬神籠石
  • 大分廃寺塔跡
  • 倭国の防衛拠点と考えられる謎の古代遺跡

     7世紀に入ると、倭国が支援する百済軍が唐・新羅の連合軍に敗戦した白村江の戦いの後、朝鮮を統一したその連合軍からの侵攻に備え、大野城や基肄城(きいじょう)など各地で古代山城が築城されるようになりました。そのひとつとして築かれたのが、頴田(かいた)地区の鹿毛馬神籠石(かけのうまこうごいし)と考えられています。

    仏教の普及を伝えるまぼろしの古代寺院

     また、仏教の普及にともない、7世紀末から8世紀初頭には筑穂地区に大分廃寺(だいぶはいじ)が建立され、ここでは新羅系古瓦が用いられており同じ瓦が出土する豊前地域との関わりが深かったことが考えられます。大分廃寺塔跡(だいぶはいじとうあと)が国指定史跡になっています。

    古代官道の整備と荘園

     8世紀には、遠賀川流域各地に貴族や大寺院・神社などの大規模な私有地である荘園が現れ、年貢などの物資は遠賀川水運を利用して搬送されていました。飯塚市には、豊前の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の荘園があり、庄内地区に領域型の綱別荘が本荘として置かれました。さらに、律令国家のもとで西海道を総管する大宰府が設置されるなかで、豊前から筑前の庄内地区の綱別駅、穂波地区の伏見駅を通過して大宰府を結ぶ官道が整備されました。

    中世

    平安時代・鎌倉時代・室町時代

    龍王山山麓の仏教文化、英彦山に次ぐ修験道場

    仏教の浸透と「飯塚」地名のおこり

     平安時代に龍王山麓で山岳仏教の道場として開かれた明星寺は、この時期に聖光上人(鎮西上人[1162-1238])により再興されました。本町に残る「飯ノ山」(いいのやま)は、開堂に際し余った飯を積んだ塚として飯塚の地名の起こりとされています。また、曩祖八幡宮社伝によると「またいつか会うべし」という神功皇后の「いつか」の言葉が「飯塚」の地名の由来ともいわれています。
     仏教の浸透は、現在も市内に残る明星寺・大日寺・蓮台寺・建花寺などの地名からうかがえます。なかでも聖光上人(鎮西上人)が再興した明星寺ゆかりの明星寺関係資料滑石刻真言(かっせきこくしんごん)などの資料が残っています。

    英彦山につぐ修験道場

     また、田川郡添田町にある英彦山の修験道(山岳信仰と仏教の習合)の影響も受け、寿永2年(1182)に勘進僧・円朝が建立した五智如来板碑(ごちにょらいいたび)がある庄内地区の権現谷がかつて英彦山につぐ修行場であったことを示しています。

    戦国時代の飯塚

     戦国時代末期には大内・大友・秋月氏の抗争の地となり、多くの山城が築かれましたが、庄司の笠木山城跡は代表的な中世山城です。

    近世

    安土・桃山時代、江戸時代

    ヒト・コト・モノが往来した長崎街道の宿場「飯塚宿」「内野宿」

    関連キーワード:
  • 飯塚宿
  • 内野宿
  • 長崎街道・宿場町等の整備

     慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、黒田長政は父・黒田如水らとともに豊前中津から烏尾峠(からすおとうげ)を通って筑前に入りました。黒田二十四騎のうち、冷水峠(ひやみずとうげ)の開削や内野宿の整備を担当した母里太兵衛(もり(ぼり)たへえ)、野村祐勝の子で鯰田地域などを治めた野村大学など、黒田家ゆかりの武将の足跡が残っています。
     内野宿の整備に関わった内野太郎左衛門や内野宿の町茶屋守(まちちゃやもり)などを務めた百冨家の古文書が現在伝わっています。
     江戸時代中期には、凶作や干ばつなどによる飢饉や、自然災害に見舞われてきました。
     片島・幸袋(こうぶくろ)・中・柳橋・目尾(しゃかのお)では水田対策が計画され、天保9年(1838)に五か村用水路が地域の請願により完成しました。

    水陸交通の要衝

     これらの地域は、水陸交通の要衝として栄えました。遠賀川本流・穂波川の水運が古来より発達し、江戸期には芦屋や若松まで年貢米や石炭、鶏卵などの地域の特産物が川船(川艜、五平太船ともいう)で運ばれました。特に、石炭は江戸期から採掘し、家庭用燃料の利用や瀬戸内海の製塩用などとして搬出されました。
     陸上交通の面では、海外との窓口長崎を結ぶ長崎街道の沿線で、冷水峠が慶長17 年に開通し、原田宿・山家宿(やまえしゅく)・内野宿・飯塚宿・木屋瀬宿(こやのせしゅく)・黒崎宿の筑前六宿が整備されました。参勤交代の大名行列や江戸参府のオランダ人一行、文人、商人、伊能忠敬(いのうただたか)やシーボルトなど多くの旅人が通過・休泊しにぎわい栄えていました。

    伝統技術・工芸品

     幕末、開国後、海外渡航船の目印として掲げられた日の丸(「日本総船印」)を染めた茜染(あかねぞめ)の技術(天然染料)が筑穂地区や飯塚地区に伝わっていましたが、近代以降は化学染料の隆盛を背景として次第に茜染の技術は失われてしまいました。現在、復興のため組織された協議会が復興活動をしています。
     文禄・慶長の役後、渡来した朝鮮の陶工八山(高取八蔵)を陶祖とする高取焼は、永満寺・内ヶ磯・山田窯を経て、寛永7年(1630)白旗山の麓に開窯されました。茶入・茶碗・水指など「遠州高取」と称する茶陶の名品がつくられています。

    近現代

    明治時代・大正時代・昭和時代

    近代日本を輝かせた石炭産業の中心部「炭都飯塚」

    石炭産業の発展へ

     幕末・明治維新期の大政奉還、王政復古の大号令などの変革を経て、幕藩体制は終わりを告げ、明治新政府による新しい日本の国づくりが始まりました。明治4年(1871)の廃藩置県により、福岡県が誕生しました。現在の飯塚市域では、明治22年(1889)の市町村制施行で飯塚町をはじめとする1町10村が誕生しました。明治29年(1896)に穂波郡・嘉麻郡の2郡が合併して嘉穂郡となり、嘉穂郡役所が設置されました。
     明治時代に入ると、近代産業の勃興も進み、飯塚では国の基幹産業となる石炭産業が栄え、周辺一帯は日本のエネルギー源供給地・筑豊炭田として発展していきました。石炭は江戸期から藩の専売品として採掘されていましたが、本格的に掘り始めるのは明治期で、はじめは「自由掘り」として多くの小炭坑が採掘されました。

    筑豊炭田の画期と炭都「飯塚」

     筑豊炭田の画期の一つは、明治13~14年(1880~81)です。明治13年、杉山徳三郎が目尾(しゃかのお)炭坑を採掘し、12月に竪坑掘削にかかり、スペシャルポンプの試運転を経て、翌年4月に蒸気機関によるポンプ揚水(ようすい)に成功して筑豊炭田の近代化の扉を開きました。
     筑豊炭田で採掘された石炭は遠賀川の水運川船(川艜(ひらた))を利用して、芦屋や若松まで運ばれました。石炭は日本の近代産業を発展させるための重要なエネルギー資源であり、地元の炭鉱主を中心に、筑豊石炭鉱業組合を結成し、麻生太吉・安川敬一郎・貝島太助の筑豊御三家や、飯塚からも中野徳次郎、伊藤傳右エ門などの炭鉱事業家が生まれました。麻生太吉は目尾炭鉱や鯰田炭鉱などをいち早く開発し、各種事業に着手しました。また、伊藤傳右エ門は父の傳六とともに、中野徳次郎らと相田・牟田炭鉱など鉱山の開発・共同経営で炭鉱事業家となりました。
     明治時代中頃には、三井・三菱・住友などの大手企業が相次いで進出し、飯塚では製鉄所の石炭供給のための潤野・高雄炭鉱を中心とする八幡製鉄所の二瀬出張所が置かれました。これと同時期に石炭事業の機械化が徐々に進み、炭鉱労働者も増えて、石炭も大量に掘られ、明治22年(1889)には、筑豊興業鉄道株式会社が設立され、運送方法も水運から鉄道輸送が主流となり、北九州や直方方面から筑豊各地に炭鉱専用の鉄道網が敷設・整備されました。昭和7年(1932)の市制施行により飯塚市が誕生し、昭和8年に昭和通りの開通、飯塚商工会議所の創立など、都市化が進み、飯塚の中心市街地には商店街が形成され、嘉穂劇場などの芝居小屋や映画館、料亭や食堂など、歓楽街も栄えました。
     市制施行記念として、昭和8年(1933)に吉田初三郎「飯塚市鳥瞰図」が制作されました。

    閉山後のまちづくり

     昭和25~28年(1950~53)の朝鮮戦争特需があったものの、第二次世界大戦の戦中戦後の混乱と、昭和30年代の高度経済成長期に石炭から石油への転換・合理化政策によって石炭産業は衰退し、炭鉱の閉山により急激に衰退が進みました。その後の飯塚では、新たな基幹産業の促進、炭鉱労働者の失業による生活危機への対応、鉱害問題の解決といった諸問題が噴出しましたが、代替産業の振興を目指して、産業・企業誘致を進めるなど地域振興策を打ち出し、旧産炭地から脱却し新たな発展を遂げようとしています。

    旧産炭地の新たな局面

     今では、かつて炭鉱で栄えた町並みや風景は様変わりする一方で、筑豊富士と謳われた忠隈のボタ山や嘉穂劇場(国登録有形文化財)旧伊藤伝右衛門邸(国指定重要文化財・名勝)、麻生大浦荘などが、筑豊の石炭産業の繁栄を物語る近代化遺産として残されています。平成30年(2018)に飯塚市の目尾炭坑跡を含む「筑豊炭田遺跡群」が国指定史跡となり、かつての石炭産業が文化財として生まれ変わり、新しい局面を迎えています。
     飯塚市歴史資料館に収蔵されている古写真古地図、また、記憶と写真をたよりに描かれた木村健一炭鉱記録画から、炭鉱時代の様相をうかがうことができます。
     現在、文化財を題材に国際交流も行われています。平成28年(2016)12月より、飯塚市はアメリカ合衆国カリフォルニア州のサニーベール市と姉妹都市関係にあります。「旧伊藤伝右衛門邸のコラージュ」作品は、国際交流事業の一環として令和4年(2022)に制作されました。元絵を28分割したものを、飯塚市とサニーベール市それぞれ14人のアーティストたちが自分の得意な技法で仕上げ、完成した28のピースを合体させて、この作品ができあがりました。


    「旧伊藤伝右衛門邸のコラージュ」


    「コラージュの元絵」

    民俗

    祈りと祭り

     本市は獅子舞の名所であり、これは、大分八幡宮から伝承され、広がったものと推定されています。戦国時代の戦乱で途絶えていた大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)の神事・祭事を、京都府の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の獅子舞の習得により、大分八幡宮放生会に奉納したものが現在まで引き継がれたもので、福岡県内に広く伝承されています。福岡の獅子舞の原点は本市にあると言えます。
     綱分八幡宮神幸行事(つなわきはちまんぐうじんこうぎょうじ)は、放生会御神幸祭ともいわれ、御神体が本殿を出て浮殿まで神幸する祭礼で、獅子舞のほか、神楽・流鏑馬・相撲などが行われます。
     神社に奉納される絵馬も、市内で最も古いのは大分八幡宮にあり、次いで曩祖八幡宮(のうそはちまんぐう)にも数多く残されています。
     また、飯塚祇園山笠が曩祖八幡宮に奉納する祭りから市民まつりとして引き継がれています。
     このように、本市は、獅子舞・絵馬などの伝承された貴重な文化財があります。