はるか縄文時代の人類の足跡
今から約1万年前の縄文時代には、すでに飯塚の地に人が足を踏み入れていました。立岩丘陵では磨製石器や石斧が発見されています。川島・殿ヶ浦(遠賀川河床)から縄文土器が出土しています。繁栄をもたらした弥生時代の立岩遺跡
約2000年前の弥生時代には、北部九州は稲作の先進地で、飯塚でも遠賀川の肥沃な土地を利用した稲作が行われてきました。立岩は、稲穂を摘み取る石庖丁の生産・交易で栄え、立岩遺跡からは南西諸島との交易をうかがわせるゴホウラ製の貝輪や、中国大陸との交流を物語る前漢鏡などが出土しています。立岩製の石庖丁は、吉野ケ里遺跡(佐賀県)でも出土するなど、北部九州を中心に当時の広い交易の様子がうかがえます。倭国の防衛拠点と考えられる謎の古代遺跡
7世紀に入ると、倭国が支援する百済軍が唐・新羅の連合軍に敗戦した白村江の戦いの後、朝鮮を統一したその連合軍からの侵攻に備え、大野城や基肄城(きいじょう)など各地で古代山城が築城されるようになりました。そのひとつとして築かれたのが、頴田(かいた)地区の鹿毛馬神籠石(かけのうまこうごいし)と考えられています。仏教の普及を伝えるまぼろしの古代寺院
また、仏教の普及にともない、7世紀末から8世紀初頭には筑穂地区に大分廃寺(だいぶはいじ)が建立され、ここでは新羅系古瓦が用いられており同じ瓦が出土する豊前地域との関わりが深かったことが考えられます。大分廃寺塔跡(だいぶはいじとうあと)が国指定史跡になっています。古代官道の整備と荘園
8世紀には、遠賀川流域各地に貴族や大寺院・神社などの大規模な私有地である荘園が現れ、年貢などの物資は遠賀川水運を利用して搬送されていました。飯塚市には、豊前の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の荘園があり、庄内地区に領域型の綱別荘が本荘として置かれました。さらに、律令国家のもとで西海道を総管する大宰府が設置されるなかで、豊前から筑前の庄内地区の綱別駅、穂波地区の伏見駅を通過して大宰府を結ぶ官道が整備されました。仏教の浸透と「飯塚」地名のおこり
平安時代に龍王山麓で山岳仏教の道場として開かれた明星寺は、この時期に聖光上人(鎮西上人[1162-1238])により再興されました。本町に残る「飯ノ山」(いいのやま)は、開堂に際し余った飯を積んだ塚として飯塚の地名の起こりとされています。また、曩祖八幡宮社伝によると「またいつか会うべし」という神功皇后の「いつか」の言葉が「飯塚」の地名の由来ともいわれています。英彦山につぐ修験道場
また、田川郡添田町にある英彦山の修験道(山岳信仰と仏教の習合)の影響も受け、寿永2年(1182)に勘進僧・円朝が建立した五智如来板碑(ごちにょらいいたび)がある庄内地区の権現谷がかつて英彦山につぐ修行場であったことを示しています。戦国時代の飯塚
戦国時代末期には大内・大友・秋月氏の抗争の地となり、多くの山城が築かれましたが、庄司の笠木山城跡は代表的な中世山城です。長崎街道・宿場町等の整備
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、黒田長政は父・黒田如水らとともに豊前中津から烏尾峠(からすおとうげ)を通って筑前に入りました。黒田二十四騎のうち、冷水峠(ひやみずとうげ)の開削や内野宿の整備を担当した母里太兵衛(もり(ぼり)たへえ)、野村祐勝の子で鯰田地域などを治めた野村大学など、黒田家ゆかりの武将の足跡が残っています。水陸交通の要衝
これらの地域は、水陸交通の要衝として栄えました。遠賀川本流・穂波川の水運が古来より発達し、江戸期には芦屋や若松まで年貢米や石炭、鶏卵などの地域の特産物が川船(川艜、五平太船ともいう)で運ばれました。特に、石炭は江戸期から採掘し、家庭用燃料の利用や瀬戸内海の製塩用などとして搬出されました。伝統技術・工芸品
幕末、開国後、海外渡航船の目印として掲げられた日の丸(「日本総船印」)を染めた茜染(あかねぞめ)の技術(天然染料)が筑穂地区や飯塚地区に伝わっていましたが、近代以降は化学染料の隆盛を背景として次第に茜染の技術は失われてしまいました。現在、復興のため組織された協議会が復興活動をしています。石炭産業の発展へ
幕末・明治維新期の大政奉還、王政復古の大号令などの変革を経て、幕藩体制は終わりを告げ、明治新政府による新しい日本の国づくりが始まりました。明治4年(1871)の廃藩置県により、福岡県が誕生しました。現在の飯塚市域では、明治22年(1889)の市町村制施行で飯塚町をはじめとする1町10村が誕生しました。明治29年(1896)に穂波郡・嘉麻郡の2郡が合併して嘉穂郡となり、嘉穂郡役所が設置されました。筑豊炭田の画期と炭都「飯塚」
筑豊炭田の画期の一つは、明治13~14年(1880~81)です。明治13年、杉山徳三郎が目尾(しゃかのお)炭坑を採掘し、12月に竪坑掘削にかかり、スペシャルポンプの試運転を経て、翌年4月に蒸気機関によるポンプ揚水(ようすい)に成功して筑豊炭田の近代化の扉を開きました。閉山後のまちづくり
昭和25~28年(1950~53)の朝鮮戦争特需があったものの、第二次世界大戦の戦中戦後の混乱と、昭和30年代の高度経済成長期に石炭から石油への転換・合理化政策によって石炭産業は衰退し、炭鉱の閉山により急激に衰退が進みました。その後の飯塚では、新たな基幹産業の促進、炭鉱労働者の失業による生活危機への対応、鉱害問題の解決といった諸問題が噴出しましたが、代替産業の振興を目指して、産業・企業誘致を進めるなど地域振興策を打ち出し、旧産炭地から脱却し新たな発展を遂げようとしています。旧産炭地の新たな局面
今では、かつて炭鉱で栄えた町並みや風景は様変わりする一方で、筑豊富士と謳われた忠隈のボタ山や嘉穂劇場(国登録有形文化財)、旧伊藤伝右衛門邸(国指定重要文化財・名勝)、麻生大浦荘などが、筑豊の石炭産業の繁栄を物語る近代化遺産として残されています。平成30年(2018)に飯塚市の目尾炭坑跡を含む「筑豊炭田遺跡群」が国指定史跡となり、かつての石炭産業が文化財として生まれ変わり、新しい局面を迎えています。
「旧伊藤伝右衛門邸のコラージュ」
「コラージュの元絵」