美馬市立図書館/美馬の記憶 デジタルアーカイブ
みま歴史散歩

うだつの町並(まちな)み~城下町(じょうかまち)コース

脇城(わきじょう)城下町(じょうかまち)、また(あい)集散地(しゅうさんち)として発展(はってん)した「うだつの町並(まちな)み」を中心に脇町(わきまち)地区(ちく)(めぐ)歴史(れきし)散歩(さんぽ)コースです。「阿波北方(あわきたがた)」と()ばれる徳島県(とくしまけん)北部(ほくぶ)吉野川(よしのがわ)流域(りゅういき)は、日本一の藍染料(あいせんりょう)産地(さんち)として、美馬市を(ふく)む9市町村が2019年に「(あい)のふるさと阿波(あわ)」として日本遺産(にほんいさん)認定(にんてい)されました。

発着地点
美馬市地域交流センター ミライズ
距離
約3.3km
所要時間
約60分※所要時間には、見学に要する時間は含まれていません。

司馬遼太郎(しばりょうたろう)街道(かいどう)をゆく』の看板(かんばん)
うだつまる(ぞう)

司馬遼太郎脇町南町 ライオンズクラブ記念碑 美馬市地域交流センターミライズ うだつまる

昭和63(1988)年2月、作家の司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんが『街道(かいどう)をゆく』の阿波(あわ)紀行(きこう)の旅で脇町(わきまち)(おとず)れたことを紹介(しょうかい)しています。『街道(かいどう)をゆく 三十二 阿波(あわ)紀行(きこう) 紀ノ川(きのかわ)流域(りゅういき)』(司馬遼太郎(しばりょうたろう)/(ちょ)   朝日新聞社/出版(しゅっぱん)阿波(あわ)紀行(きこう) 九 「脇町(わきまち)のよさ」 その(となり)には、当地区を象徴(しょうちょう)する「うだつ」をモチーフとした美馬(みま)観光(かんこう)ビューローのマスコットキャラクター「うだつまる」の(ぞう)があります。

脇町(わきまち)劇場(げきじょう)オデオン()

美馬市指定有形文化財

オデオン座

昭和9(1934)年に建築(けんちく)戦前(せんぜん)芝居(しばい)小屋、戦後(せんご)映画館(えいがかん)として(にぎ)わい、平成(へいせい)7(1995)年に閉館(へいかん)しました。その後、取り(こわ)される予定でしたが、平成(へいせい)8(1996)年に山田洋次(ようじ)監督(かんとく)映画(えいが)(にじ)をつかむ男』のロケ舞台(ぶたい)となったことがきっかけで、昭和(しょうわ)初期(しょき)創建時(そうけんじ)姿(すがた)修復(しゅうふく)され、花道や回り舞台(ぶたい)奈落(ならく)などが一般(いっぱん)公開されています。二階には映画(えいが)「男はつらいよ」の第1作~48作のポスターが(かざ)られています。

うだつの町並(まちな)

国選定重要伝統的建造物群保存地区

うだつの町並み 現在の八鶴館と八鶴湖 昔の八鶴館と八鶴湖 現在の八鶴館と八鶴湖

脇町(わきまち)南町(みなみまち)の「うだつの町並(まちな)み」は江戸(えど)時代から阿波(あわ)(あい)集散地(しゅうさんち)として(さか)えた商家町(しょうかまち)で、東西約400mの通りを中心とする地区に、江戸(えど)中期から昭和初期(しょき)歴史的(れきしてき)建造物(けんぞうぶつ)が立ち(なら)んでいます。 「うだつ」とは、隣家(りんか)の間に取り()けられる防火壁(ぼうかへき)のことですが、次第に装飾(そうしょく)(ほどこ)され、商人の財力(ざいりょく)(あかし)(とみ)象徴(しょうちょう)として発達(はったつ)しました。ことわざ「うだつが上がらない」の語源(ごげん)となったといわれています。

旧脇町(きゅうわきまち)図書館

脇町図書館 脇町図書館

明治期(めいじき)には呉服屋(ごふくや)として、大正期には農業倉庫(そうこ)として使われていた建物(たてもの)を、昭和61(1986)年に神戸大学・重村(しげむら)(つとむ)名誉(めいよ)教授(きょうじゅ)設計(せっけい)増改築(ぞうかいちく)され、脇町(わきまち)図書館として、平成(へいせい)29(2017)年12月まで31年間利用(りよう)されました。白壁(しらかべ)に書かれている「脇町立(わきちょうりつ)図書館」の白い()き字はその名残(なごり)です。

落久保(おちくぼ)の屋台

美馬市指定有形民俗文化財

屋台

大正14(1925)年、猪尻(いのしり)建築家(けんちくか) 實藤(さねとう)了の製作(せいさく)。前面には三宅(みやけ)昌斉(しょうさい)小十郎(こじゅうろう))の彫刻(ちょうこく)がされており、太鼓台(たいこだい)には玉取姫(たまとりひめ)、波には蓬莱亀(ほうらいかめ)取付(とりつ)けられています。また、両側(りょうがわ)の柱に裸龍(はだかりゅう)が、周辺(しゅうへん)には唐草(からくさ)(まつ)(つる)などの彫刻(ちょうこく)があります。屋台の(かつ)(だい)には、脇人(わきひと)神社の神紋(しんもん)四割菱(よつわりびし)」と高良(こうら)神社の神紋(しんもん)(たか)(ちが)い羽根」が金属板(きんぞくばん)(きざ)まれています。脇人(わきひと)神社にまつられている脇城主(わきじょうしゅ)武田(たけだ)信顕(のぶあき)()信定(のぶさだ)の命日である10月22日に屋台が出されていました。

吉田家(よしだけ)住宅(じゅうたく)

美馬市指定有形文化財

吉田家住宅 吉田家住宅

寛政(かんせい)4(1792)年に初代(しょだい)吉田(よしだ)直兵衛(なおべえ)によって創業(そうぎょう)された藍商(あいしょう)家屋(かおく)屋号(やごう)は「佐直(さなお)」。脇町(わきまち)(もっと)も広い敷地(しきち)(やく)600(つぼ))を有し、主屋(おもや)質蔵(しちぐら)中蔵(なかぐら)(はな)()藍蔵(あいぐら)が中庭を囲むように()(なら)んでいます。また、当時裏手(うらて)を流れていた吉野川(よしのがわ)直接(ちょくせつ)()りられるように(つく)られた階段状(かいだんじょう)船着場(ふなつきば)(あと)があります。

船着(ふなつ)()公園(こうえん)

船着き場公園 船着き場公園

近世から明治(めいじ)・大正まで、貨物(かもつ)運搬(うんぱん)吉野川(よしのがわ)の水運を利用(りよう)した帆掛(ほか)(ぶね)が主流でした。吉野川(よしのがわ)は、春から夏にかけて東風が()くので、八反帆(はったんほ)をかけた平田(ひらた)(ぶね)が次から次へと荷物を満載(まんさい)して川を上下していました。脇町(わきまち)江戸期(えどき)から明治期(めいじき)にかけて、阿波藍(あわあい)集散地(しゅうさんち)として(さか)え、この一帯(いったい)河川(かせん)交易(こうえき)玄関口(げんかんぐち)であり、船着(ふなつ)()()ばれていました。段状(だんじょう)(つら)なる石垣(いしがき)はその遺構(いこう)であり、その高さは昔の吉野川(よしのがわ)氾濫(はんらん)高水位(こうすいい)であったことを物語っています。

脇人神社(わきひとじんじゃ)

脇人神社 脇人神社 脇人神社 脇人神社 脇人神社_神輿

阿波志(あわし)』によると、慶長(けいちょう)年間(ねんかん)脇城主(わきじょうしゅ)稲田(いなだ)植元(たねもと)が、脇城(わきじょう)丸の内に、武田(たけだ)信玄(しんげん)()()(てい)にあたる武田(たけだ)信顕(のぶあき)と、その子である武田(たけだ)信定(のぶさだ)(まつ)るために脇人(わきひと)大名神(だいみょうじん)(まつ)ったのが始まりとされています。明治(めいじ)8(1875)年には南町(みなみまち)にあった高良(こうら)神社を合祀(ごうし)しました。脇城(わきじょう)水壕(すいごう)(あと)が神社の東側(ひがしがわ)(のこ)っています。

脇城址(わきじょうし)(のぞ)

脇城址を望む

吉野川(よしのがわ)中流域(ちゅうりゅういき)防衛(ぼうえい)拠点(きょてん)だった岩倉城(いわくらじょう)(わき)(かた)めるために三好(みよし)長慶(ながよし)築城(ちくじょう)したと言われています。長宗我部(ちょうそかべ)元親(もとちか)阿波(あわ)侵攻(しんこう)や、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)四国(しこく)征伐(せいばつ)舞台(ぶたい)となりました。その後、戦国(せんごく)時代(じだい)()て、脇城(わきじょう)とその周辺(しゅうへん)蜂須賀(はちすか)()家臣(かしん)稲田(いなだ)()によって本格的(ほんかくてき)城下町(じょうかまち)として整備(せいび)されました。

貞真寺(ていしんじ)

美馬市指定有形文化財(貞真寺山門)

貞真寺山門 貞真寺

曹洞宗(そうとうしゅう)永平寺(えいへいじ)()(わき)城主(じょうしゅ)であった稲田(いなだ)稙元(たねもと)(はは)貞真尼(ていしんに)菩提(ぼだい)(とむら)うために()てられ、稲田(いなだ)()菩提(ぼだい)()となりました。しかし稲田(いなだ)()は、元和(げんな)元(1615)年の淡路(あわじ)(こく)加封(かふう)により、嘉永(かえい)8(1631)年に淡路(あわじ)城代(じょうだい)となり脇町(わきまち)(はな)れます。そのため、二代目以降(いこう)墓所(ぼしょ)はこの脇町(わきまち)貞真寺(ていしんじ)にはありません。昭和30(1955)年3月14日の火災(かさい)により、貞真寺(ていしんじ)にあった文化財(ぶんかざい)は山門を(のこ)してすべて焼失(しょうしつ)してしまいました。 その後、有志(ゆうし)により平成(へいせい)28(2016)年に60年ぶりに本堂(ほんどう)再建(さいけん)令和(れいわ)元(2019)年には老朽化(ろうきゅうか)した山門も再建(さいけん)され、現在(げんざい)(いた)ります。

稲田墓所(いなだぼしょしょ)

美馬市指定史跡

稲田墓所 稲田墓所説明看板

稲田(いなだ)()菩提(ぼだい)()である貞真寺(ていしんじ)境内(けいだい)にあります。土塀(どへい)(かこ)まれ、南側(みなみがわ)中央に稲田(いなだ)()家紋(かもん)()った門があり、門前には石灯籠(いしどうろう)(なら)んでいます。墓所(ぼしょ)には、稲田(いなだ)稙元(たねもと)とその(つま)、両親、兄2人の(けい)6人の(はか)があります。

秋葉神社(あきばじんじゃ)

秋葉神社山門 秋葉神社説明看板 秋葉神社

脇町(わきまち)は、江戸(えど)時代、たびたび大火に見舞(みま)われた歴史(れきし)があります。(とく)文政(ぶんせい)12(1829)年12月31日の大火では169(けん)消失(しょうしつ)し、大きな被害(ひがい)を受けました。 そこで火()けのために遠江国(とおとうみのくに)静岡県(しずおかけん))の秋葉(あきば)神社の勧請(かんじょう)により「火の神」を(まつ)ったのが始めとされます。

東林寺(とうりんじ)

美馬市指定有形文化財(東林寺山門)
美馬市指定名勝(東林寺庭園)

東林寺山門 東林寺

寺伝(じでん)によれば、大永(だいえい)2(1522年)年に照誉(しょうよ)上人(しょうにん)(わき)()(もと)めに(おう)じて創建(そうけん)した浄土宗(じょうどしゅう)寺院(じいん)本尊(ほんぞん)十一面(じゅういちめん)観音(かんのん)菩薩(ぼさつ)。山門と庭園(ていえん)が美馬市の文化財(ぶんかざい)に指定されています。 東林(とうりん)()山門】一間(いっけん)一戸(いっこ)鐘楼(しょうろう)(もん)で、階上には銅鐘(どうしょう)()るされた鐘撞堂(かねつきどう)があります。 東林(とうりん)()庭園(ていえん)】作庭の時期は室町時代末期(まっき)とされ、徳島(とくしま)()阿波(あわ)国分寺(こくぶんじ)庭園(ていえん)、美馬市願勝(がんしょう)()庭園(ていえん)、つるぎ町多聞寺庭園(ていえん)などと同様に県下でも古い庭園の一つです。

安楽寺(あんらくじ)

安楽寺山門 小野五平翁の墓

浄土真宗(じょうどしんしゅう)本願(ほんがん)()()正保(しょうほう)4(1647)年、美馬町安楽寺の隠居(いんきょ)(でら)として創立(そうりつ)しました。これを(ぞく)(かかり)(どころ)といい、住職(じゅうしょく)は十年一期で交代制(こうたいせい)でしたが、明治(めいじ)16(1883)年に分離(ぶんり)独立(どくりつ)しました。 将棋(しょうぎ)名人小野(おの)五平(ごへい)()脇町(わきまち)安楽寺の本堂(ほんどう)左奥(ひだりおく)に「棋道(きどう)名人(めいじん)小野(おの)五平(ごへい)(おきな)()」があります。小野(おの)五平(ごへい)は、明治(めいじ)・大正にかけて日本将棋(しょうぎ)(かい)活躍(かつやく)した将棋(しょうぎ)12世名人で、脇町(わきまち)南町(みなみまち)(うだつの町並(まちな)み)の中に生家(せいか)(平田家)があります。将棋(しょうぎ)名人は現在(げんざい)まで四国ではただ一人であり、小野(おの)五平(ごへい)顕彰(けんしょう)した将棋(しょうぎ)大会が開催(かいさい)されています。

真福寺(しんぷくじ)

真福寺

真言宗(しんごんしゅう)大覚(だいかく)()()岩倉(いわくら)城址(じょうし)の近くにある真楽寺(しんらくじ)末寺(まつじ)です。

本覚寺(ほんがくじ)

本覚寺山門 本覚寺鐘楼

法華宗(ほっけしゅう)本能(ほんのう)()()。三十番神、()()母神(ぼじん)などがあります。この地域(ちいき)宗派(しゅうは)(こと)なる寺がいくつもある、(めずら)しい地域(ちいき)です。

中町通(なかまちどお)

中町通り 脇町会館跡 大黒座跡 大黒湯跡

中町通りは、明治(めいじ)・大正期には料亭(りょうてい)(のき)(つら)ね、にぎわっていた通りです。 脇町(わきまち)会館】大黒(おおくろ)()の向かい(がわ)設立(せつりつ)された映画(えいが)(かん)。昭和25年(ころ)からあったといわれ、映画(えいが)最盛(さいせい)()脇町(わきまち)劇場(げきじょう)(げん)オデオン())と(きそ)い合うほどの(にぎ)わいだったそうです。映画(えいが)ブームが去った昭和40年代(はじ)めに閉館(へいかん)しました。 大黒(おおくろ)()脇町(わきまち)()】元大黒(おおくろ)()東側(ひがしがわ)にあった芝居(しばい)小屋(ごや)現在(げんざい)駐車場(ちゅうしゃじょう))で、芝居(しばい)漫才(まんざい)興行(こうぎょう)しました。後に脇町(わきまち)()改称(かいしょう)され、昭和(はじ)(ごろ)まで映画(えいが)義太夫(ぎだゆう)琵琶(びわ)の大会が開かれていました。 大黒(おおくろ)()(あと)脇町(わきまち)最後(さいご)銭湯(せんとう)として、昭和末期(まっき)まで営業(えいぎょう)していました。開業は古く、明治(めいじ)中期と(つた)えられています。