
岩倉城跡コース
①うだつアリーナ

美馬広域圏住民の体育・スポーツの振興と文化向上のために、平成11年(1999)9月に着工し、13年(2001)5月に完成した。 この辺りは、岩倉城の城館跡と推測される遺跡があった。平成10年(1998)うだつアリーナ建設に伴う事前調査として鴨地遺跡の調査を脇町教育委員会(当時)が行った。調査では礎石を伴う建物跡と柵列が検出された。土師器、陶磁器など14~16世紀代中世末期の遺物が出土し、岩倉城の築かれていた時期と合い、礎石を伴う堅牢な建物跡の存在と、吉野川の水運を利用した川港立地の可能性があり、軍事、経済的流通の要所としての館跡と考えてよい遺跡と思われる。
【美馬環境備整組合 クリーンセンター美馬】
うだつアリーナに隣接するごみ焼却施設。裏手には、岩倉城を守る堀の跡が残っている。
②真楽寺

真言宗大覚寺派の寺院。岩倉城跡の北方100メートルに位置する。文禄元年(1592)快秀上人により岩倉城の出城・北野坊跡に建立された。本尊は阿弥陀如来であり、胎内の銘文に、建久8年(1197)に小笠原氏の発願により造立されたとある。阿波西国三十三音観霊場32番札所。
③岩倉城跡



岩倉城は、中世に築城された阿波国西部地区を代表する城の一つ。築城年は不明。三好郡領 平盛隆を滅した小笠原長房が西阿制圧の足がかりとして美馬郡東部に設けたといわれている(文永4年(1261)頃)。永正17年(1520)に、三好山城守康長笑岩)が城を改修し、阿波における三好氏の本拠地となった。最盛期には六坊(六つの出城)を備えた広大な城を持っていたといわれる。天正13年(1585)、羽柴秀吉の四国攻略にあたり、岩倉城域は羽柴秀次の攻撃を受け落城、その後廃城となった。三好氏の経済的基盤は、吉野川中流域の沖積地で栽培され染料に使用された「藍」であったと考えられる。藍の栽培に適した舞中島、岩倉、郡里の沖積地による一大産地を伴った場所での築城が三好氏の阿波での拠点となったことが十分うかがえる。 本丸があった場所以外は、農地改革でほとんどが削られ、現存していない。 歴代岩倉城城主の墓。五輪塔数基を伴った墓石。