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こどものページでは、主(おも)に小(しょう)・中学生(ちゅうがくせい)向(む)けに、都城市(みやこのじょうし)や都城島津氏(みやこのじょうしまづし)の歴史(れきし)について学(まな)べるコンテンツをそろえています。楽(たの)しく学びながら都城市(みやこのじょうし)について詳(くわ)しくなろう!

都城(みやこのじょう)を知(し)る·学(まな) ぶ

このページでは、都城市(みやこのじょうし)がどんな地域(ちいき)であるかや、都城島津家(みやこのじょうしまづけ)について紹介しています。都城市(みやこのじょうし)に住(す)む小学生(しょうがくせい)のみやこさん・じょうさん、第(だい)15代(だい)都城島津氏(みやこのじょうしまづし)当主(とうしゅ)の北郷(ほんごう)久直(ひさなお)をモデルとして生まれたキャラクター・ひさなおくんと一緒(いっしょ)に楽(たの)しく学(まな)ぶことができます。

01.都城市(みやこのじょうし)ってどんなところ?

都城市(みやこのじょうし)といえば自然(しぜん)が豊(ゆた)かで畜産業(ちくさんぎょう)や農業(のうぎょう)が盛(さか)んな「肉と焼酎(しょうちゅう)のまち」として有名(ゆうめい)だよね!
みやこさん、よく知っているね。都城市(みやこのじょうし)は昔(むかし)から豊(ゆた)かな自然(しぜん)を生かした食べものの文化(ぶんか)があったんだよ。
都城市(みやこのじょうし)は、まわりを山に囲(かこ)まれた盆地(ぼんち)で、霧島(きりしま)の山からたくさんの水が流れてくるんだ。また、火山の灰(はい)でできた土が多く、そのおかげで作物(さくもつ)がよく育(そだ)つんだよ。だから、昔(むかし)から、米(こめ)やさといも、かんしょ、茶(ちゃ)などの栽培(さいばい)が盛(さか)んだったんだ。
また、牛(うし)や豚(ぶた)、にわとりをたくさん育(そだ)てていて、その数は全国(ぜんこく)トップクラスなんだよ。
自然(しぜん)豊(ゆた)かな土地(とち)だから食(しょく)の文化(ぶんか)も発展(はってん)したんだね。古い記録(きろく)にも食文化(しょくぶんか)について記(しる)されていることになっとく!

02.都城市(みやこのじょうし)が「島津発祥(しまづはっしょう)の地(ち)」といわれるのはなぜ?

都城市内(みやこのじょうしない)で「島津発祥(しまづはっしょう)の地(ち)」と書(か)いてある看板(かんばん)を見(み)つけたんだけれども、どういうことなのかな?
じょうさん、いいところにきがついたね!
今から約(やく)1000年前(ねんまえ)に、宮崎県(みやざきけん)から鹿児島県(かごしまけん)にまたがって「島津荘(しまづのしょう)」という大きな土地(とち)があって、都城市(みやこのじょうし)はその中心地(ちゅうしんち)となっていたんだ。また、約(やく)850年前(ねんまえ)に、その土地(とち)の管理人(かんりにん)となった惟宗忠久(これむねただひさ)という人が、島津荘(しまづのしょう)から島津(しまづ)の名前(なまえ)をとって、「島津忠久(しまづただひさ)」と名のりはじめたんだ。
これらのことから、都城市(みやこのじょうし)が「島津発祥(しまづはっしょう)の地(ち)」といわれるようになったんだよ。
都城市(みやこのじょうし)は自然(しぜん)や食(た)べ物(もの)だけじゃなくて、歴史(れきし)も豊(ゆた)かなところなんだね!

03.どうして「都城(みやこのじょう)」っていう名前(なまえ)なの?

どうして都城市(みやこのじょうし)は「都城(みやこのじょう)」って名前(なまえ)になったのかな。なにか理由(りゆう)があるのかな?
今から約(やく)650年前(ねんまえ)(1375年ごろ)、北郷義久(ほんごうよしひさ)という人が都島(みやこじま)の地(ち)(現在(げんざい)の都島町(みやこじまちょう))に城(しろ)をたてたと伝(つた)えられているんだ。「都島(みやこじま)にある城(しろ)」だから、この城(しろ)を「みやこのじょう」と呼ぶようになり、それが、市の名前(なまえ)「都城(みやこのじょう)」の由来(ゆらい)になったといわれているよ。
ちなみに、北郷氏(ほんごうし)は、この「都城(みやこのじょう)」を拠点(きょてん)にして力を伸(の)ばしていったんだ。
とても古くから「みやこのじょう」という名前(なまえ)があったんだね。城(しろ)の名前(なまえ)が由来(ゆらい)になっているなんてかっこいい!

04.都城市(みやこのじょうし)と都城島津氏(みやこのじょうしまづし)

都城市(みやこのじょうし)の歴史(れきし)について調(しら)べると、よく「北郷(ほんごう)」や「都城島津(みやこのじょうしまづ)」という名前(なまえ)をみかけるね。いったいどんな人たちなのかな?
北郷氏(ほんごうし)は、約(やく)670年前(ねんまえ)(1352年ごろ)に島津氏(しまづし)という大きな家(いえ)から分(わ)かれてできた武士(ぶし)の家なんだよ。北郷(ほんごう)という土地(とち)をもらったことにちなんで北郷(ほんごう)と名のりはじめたんだ。そこから北郷氏(ほんごうし)は力を強(つよ)くして、都城盆地(みやこのじょうぼんち)全体(ぜんたい)を治(おさ)めるようになったんだ。また、江戸時代(えどじだい)のはじめ(今から約360年前)になると、「島津(しまづ)」という名前(なまえ)にもどして、「都城島津氏(みやこのじょうしまづし)」とよばれるようになったんだよ。
とても長い歴史(れきし)のある家(いえ)で、都城市(みやこのじょうし)の歴史(れきし)を知るうえで欠(か)かせない人たちなんだね。

05.都城島津氏(みやこのじょうしまづし)を強(つよ)くした立役者(たてやくしゃ)・北郷忠相(ほんごうただすけ)

長い歴史(れきし)をもつ都城島津氏(みやこのじょうしまづし)だけれども、有名(ゆうめい)な人っているのかな?
たくさんのすごい人びとがいたんだけれども、都城島津氏(みやこのじょうしまづし)でとくに有名(ゆうめい)な人物(じんぶつ)といえば、8代目(だいめ)の北郷忠相(ほんごうただすけ)だね。日本中(にほんじゅう)で戦(たたか)いがつづいていた時代(じだい)(戦国時代(せんごくじだい)というよ)の都城島津氏(みやこのじょうしまづし)のリーダーで、都城盆地(みやこのじょうぼんち)全体(ぜんたい)の統一(とういつ)に成功(せいこう)した人なんだよ。のちの都城島津氏(みやこのじょうしまづし)の人びとから、都城島津氏(みやこのじょうしまづし)を強(つよ)くした人として尊敬(そんけい)されていて、忠相(ただすけ)のものと伝わる「かぶと」と「よろい」は、代々(だいだい)大切に保管(ほかん)されてきたんだ。
とってもかっこいい「かぶと」と「よろい」だね。これを着(き)た北郷忠相(ほんごうただすけ)は、きっとすごく強(つよ)い人だったんだろうなあ。

06.江戸時代(えどじだい)の都城島津氏(みやこのじょうしまづし)

都城島津氏(みやこのじょうしまづし)といえば「都城(みやこのじょう)のおとのさま」というイメージがあるのだけれども、どういうことなのかな?
今から約(やく)430年前(ねんまえ)から約(やく)160年前(ねんまえ)の江戸時代(えどじだい)、都城市(みやこのじょうし)は島津氏(しまづし)が治(おさ)める鹿児島藩(かごしまはん)という地域(ちいき)にふくまれていたんだ。鹿児島藩(かごしまはん)はとても広くて、いくつもの地域(ちいき)に分けて治(おさ)められていたんだ。
このうち、旧都城市(きゅうみやこのじょうし)と旧山田町(きゅうやまだちょう)は、鹿児島藩(かごしまはん)の中の「都城領(みやこのじょうりょう)」として都城島津氏(みやこのじょうしまづし)が治(おさ)めていたんだよ。都城島津氏(みやこのじょうしまづし)の人びとが仕事(しごと)を行(おこな)うため、現在(げんざい)の都城市役所周辺(みやこのじょうしやくしょしゅうへん)に領主館(りょうしゅやかた)という建物(たてもの)がたてられたんだ。この領主館(りょうしゅやかた)を中心(ちゅうしん)にまちが作られていって、今の中心市街地(ちゅうしんしがいち)の原型(げんけい)になっていったんだよ。
江戸時代(えどじだい)における都城(みやこのじょう)のリーダーだったんだ!それに、今のまちの姿(すがた)ができあがるまでに、都城島津氏(みやこのじょうしまづし)が大きく関係(かんけい)していたんだね。

くわしく知りたい

明暦以前島津領主館指図

『明暦以前島津領主館指図(めいれきいぜんしまづりょうしゅやかたさしず)』

都城島津氏(みやこのじょうしまづし)12代(じだい)忠能(ただよし)の時に、新たに現在(げんざい)の市役所(しやくしょ)一帯(いったい)に領主館(りょうしゅやかた)がたてられた。

07.都城島津氏(みやこのじょうしまづし)の歴史(れきし)(明治(めいじ))

武士(ぶし)の時代(じだい)が終(お)わったあと、都城島津氏(みやこのじょうしまづし)の人びとはどこで暮(く)らしたのかな。
武士(ぶし)の時代(じだい)が終(お)わると、都城島津氏(みやこのじょうしまづし)は都城(みやこのじょう)領主(りょうしゅ)の役割(やくわり)をおえて、領主館(りょうしゅやかた)を手放(てばな)すことになったんだ。そして明治(めいじ)12年(1879年)に、現在(げんざい)の都城市早鈴町(みやこのじょうしはやすずちょう)の土地(とち)に邸宅(ていたく)をたてて、そこに住(す)んでいたんだ。この邸宅(ていたく)は、部屋(へや)を増(ふ)やして広くしたり、つくりかえたりしながら現在(げんざい)まで残(のこ)っているよ。また、同じ敷地(しきち)の中には庭(にわ)が作られたり、いろんな建物(たてもの)がたてられたりしたんだ。
古くて貴重(きちょう)な建物(たてもの)が残ったんだ!今では博物館(はくぶつかん)「都城島津邸(みやこのじょうしまづてい)」として見学(けんがく)ができるんだよね。

08.都城島津氏(みやこのじょうしまづし)に伝(つた)えられた史料(しりょう)

ここまで、都城島津氏(みやこのじょうしまづし)が長い歴史(れきし)をもつことや、かつて住(す)んでいた邸宅(ていたく)が残(のこ)っていることを学んできたけれど、ほかにはどんなものが残っているのかな?
都城島津氏(みやこのじょうしまづし)では代々(だいだい)、古い書物(しょもつ)や手紙(てがみ)、武士(ぶし)が使う道具(どうぐ)など、いろんな種類(しゅるい)のものがうけつがれてきたんだ。その数は約(やく)1万点(まんてん)にもなるんだよ。長い間(あいだ)、都城島津邸(みやこのじょうしまづてい)の中の蔵(くら)で保管(ほかん)されてきたもので、現在(げんざい)では、都城島津伝承館(みやこのじょうしまづでんしょうかん)という建物(たてもの)で保存(ほぞん)・展示公開(てんじこうかい)されているんだ。
約(やく)1万点(まんてん)!?とっても多くの史料(しりょう)が残っているんだね。ぜひ見に行ってみたいな!

09.都城島津氏(みやこのじょうしまづし)の古文書(こもんじょ)・古記録(こきろく)

都城島津伝承館(みやこのじょうしまづでんしょうかん)を見学(けんがく)してみると、むかしの人が書(か)いた手紙(てがみ)や、むかしのできごとを書(か)きとめたものがたくさん展示(てんじ)されていたよ。
むかしの人が書いた手紙(てがみ)や書類(しょるい)を「古文書(こもんじょ)」、むかしのできごとを書きとめた日記(にっき)や記録(きろく)を「古記録(こきろく)」とよぶよ。都城島津氏(みやこのじょうしまづし)のもとにはたくさんの古文書(こもんじょ)や古記録(こきろく)が伝(つた)わっていて、その数は9000点をこえるんだ。すごいのは、その数の多さだけでなく、都城市(みやこのじょうし)や日本の歴史(れきし)を知る上で貴重(きちょう)なものもあるんだよ。
とても数が多いし、むかしの文字だから読むのがむずかしそう…。でも、今の文字と比べながら読める画面もあるんだね。

10.都城島津氏(みやこのじょうしまづし)の美術工芸品(びじゅつこうげいひん)

都城島津伝承館(みやこのじょうしまづでんしょうかん)の展示(てんじ)では、古文書(こもんじょ)や古記録(こきろく)のほかにも、かっこいいよろいやとってもきれいな絵(え)を見ることができたよ。
都城島津氏(みやこのじょうしまづし)のもとには代々(だいだい)、当主(とうしゅ)の姿(すがた)をえがいた絵(え)や、「よろい」や「かぶと」、「びょうぶ」、戦(たたか)いで使(つか)った道具(どうぐ)など、いろいろなものが今ものこっているよ。たくさんのこっているだけでなく、どれもとてもりっぱで、すばらしいものばかりなんだ。
きれいな画像(がぞう)で見ることもできるから、とても便利(べんり)だね!

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